川之邊 一朝 (かわのべ いっちょう) 1830〜1910
旭日朝露蒔絵菓子器 (きょくじつにあさつゆまきえかしき)
川之邊一朝作 石澤兵吾注文
製作年代 : 明治時代後期
明治38年(1905)
法量 :
縦193mm×横195mm×高113mm
鑑賞 :
日の出に薄の上の朝露を表わし、日露戦争で日本が勝利することを寓意しています。
官僚で『琉球漆器考』
の著者としても知られる石澤兵吾の注文により、
川之邊一朝が製作しました。
意匠、時代背景、製作経緯とともに、歴史資料としても極めて
価値の高い作品です。
意匠 :
右上に水平線から上がる旭日を表わし、左下に薄の叢を描いています。
薄の上には朝露を表し、日の出によって露が消失する様を表して、
日露戦争での日本の勝利を寓意しているのです。
形状 :
被蓋造で、隅切とし、四側面に脚を付けて唐櫃のような菓子器としています。
技法 :
黒蝋色塗地に朱金の研出蒔絵で旭日を、
波を焼金の研出蒔絵で表わし、土坡はやや高上げして肉合研出蒔絵にしています。
薄は青金平蒔絵、朝露は銀平蒔絵です。内部は艶消しの黒蝋色塗地で、釦は金平蒔絵にしています。
作銘 :
蓋甲左下に「一朝作」の蒔絵銘があります。
箱書 :
桐製桟蓋造の外箱には表に「蒔絵菓子器」と墨書があり、蓋裏左下には「塗師欽哉(欽哉)」の落款、さらに注文者の石澤兵吾によって
次のような箱書があります。
明治甲辰二月、帝國與露國之國交破裂、啓寡端、廿六十日宣戦矣之詔勅、
是露不履與清之盟約依然右拠於満洲由将併呑於韓国矣、
露国、人多富裕而毎飽恣暴疾亦不知、列国夙悪之猶蛇蜴故、此役也、實不可不吉古来未曾有太患矣、
於是宇擧国一致努実現其 懲其赤誠盡世不見其 匹珠儔也、
于時余在州羽郡宰之任其閣僚属其他官僚奉大命、以有向戦、或有轉免就、
徴之於畴昔之例、張小宴、以表歓送迎之意、今、方掫古未曾有之國難、
徒非為酒食可浪費、宜不可不澤節費以可遺紀念於他日之策衆議一決、
而其品種図按共一任余意匠矣惟此役也雖國亘之彌久不可不勝、
雖衷幾萬之将卒不可不勝雖失幾億之敗幤不可不勝恙、是我擧
国一致之神膸也、況此役於大義名分鮮明宇然則、此役也、恰等旭日與朝露、乃使画
叢露映日光而消失之圖嘱當時蒔絵師之巨擘帝室技芸院正六位勲六等川之邊
一朝氏、而製此菓子器焉之爾
明治辛亥六月上浣 正七位勲六等石澤兵吾誌(石澤兵吾)(石澤)
3つ捺された石澤兵吾の朱印は著書『琉球漆器考』の序文に捺されたものと同一です。
ただし箱書をした明治44年(1911)6月には
川之邊一朝は前年に没して故人となっています。
石澤兵吾(1853−1919) :
明治時代の官僚です。
沖縄県農商課長として赴任していた際に編纂した名著
『琉球漆器考』の著者として有名です。
福島県耶麻郡長の後、1901年から1905年まで新潟県刈羽郡長でした。
製作経緯 :
日露戦争は明治38年(1905)2月8日に始まり、
翌年10月14日の日露講和条約批准で終戦となりました。
日本は乏しい国力を戦争で使い果たして辛うじて勝利しました。
箱書によれば、石澤兵吾が刈羽郡宰時代に日露戦争への歓送迎の小宴のため、
当時「蒔絵師之巨擘」で「帝室技芸員」であった
川之邊一朝に製作を依頼したということになります。その前に木地と塗を新潟で調達したようです。
塗は小山欽哉で、それを東京に送って一朝に蒔絵してもらったのでしょう。記念品としていくつか作らせたと考えられます。
伝来 :
都内で2004年に発見されました。今回が初公開です。
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