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  •  原 羊遊斎 (はら ようゆうさい) 1769〜1845

    全体写真

    蓮蒔絵入子鉄鉢
    (はすまきえいりこてっぱつ)

     原羊遊斎作 中村仏庵書

     製作年代 :
     江戸時代後期
     天保4年(1833)頃

     法量 :
    鉄鉢 直径180mm×高76mm
    大椀 直径146mm×高67mm
    中椀 直径141mm×高51mm
    小椀 直径135mm×高38mm
    大皿 直径129mm×高30mm
    小皿 直径122mm×高17mm

     鑑賞 :
    酒井抱一・大田南畝・亀田鵬斎など、原羊遊斎周辺の文化人とも親交があった 中村仏庵の書を表した鉄鉢です。
     中村仏庵は徳川幕府の御畳大工棟梁であり、 仏教美術のコレクターでもあり、書の大家でもありました。 中村仏庵の書と蓮の花弁を表した仏具で、制作年も判明し、 羊遊斎との交流を確認できる資料的価値が極めて高い作品です。

     意匠 :
    全体写真 全ての器に、蓮の花弁を散らしています。底には
      壽阿弥陀仏
      十二資具之一
    と書かれています。鉄鉢のみが行書、他の5つの器は楷書になっています。 鉄鉢の胴部には隷書で、
      如蜂採華但取其味不損色香
    との字句が一周しています。 「蜂が華を採るが如く、但しその味を取りて、色と香を損なわず」 という意味で「仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)」 の一節です。 「仏遺教経」は釈迦が入滅に際して最後に説いたものとされます。






     正面には「改寅臘八/八十二翁(佛庵)」とあります。「改まる寅」とは、寅の年に元号が変わった天保を示し、 八十二翁は天保4年(1833)にあたり、 「臘八」は12月8日のことで、釈迦が悟りを開いた日にあたります。 書は全て中村仏庵の筆になるものです。

     形状 : 全体写真
    鉄鉢の中に、3つの椀と2つの皿が順に入れ子に収まります。

     技法 :
    かすかに透ける木目の様子と重さからみて、素地は欅と思われます。全体に布着せをして、 黒蝋色塗地に黒の蓮の花弁が散らされています。 花弁は、黒石目塗にして、花弁の筋の模様を粘りのある黒漆で描いて完成です。 鉄鉢の胴部にある「如蜂採華但取其味不損色香」の字句は赤銅粉の高蒔絵、 「壽阿弥陀佛/十二資具之一」と「改寅臘八/八十二翁」は銀粉の高蒔絵になっています。 「佛庵」の朱文方形印は朱石目です。


    鉄鉢底部作銘写真 鉄鉢正面銘写真

     作銘 :
    6つの器の内、鉄鉢の底部と椀状の器側面の2箇所に「羊遊斎」の蒔絵銘があります。

     外箱 :
    桐製薬籠蓋の外箱に納まっています。貼札に「羊遊斎作/鉄鉢/入子皆具」の墨書があります。

     伝来 :
    1999年に東京で発見されました。今回初公開です。 伝来は不明ですが中村仏庵が仏教美術のコレクターであったことを考えると、 当人の注文品と考えられます。
    椀作銘写真 楷書 壽阿弥陀仏十二資具之一 写真
     中村仏庵(1852〜1835) :
    山本周五郎の小説『五弁の椿』の書き出しは、この中村仏庵の死から始まっています。 それは天保5年(1835)の正月7日のことでした。
     中村家は、代々三河国碧海郡中村に居住し、 徳川家康の関東移封に際して、中村吉広が付き従って江戸に移住したことに始まります。 江戸時代には、伊阿弥家とともに代々御畳大工棟梁を勤め、拝領町屋敷は神田松下町にあり ました。江戸城の広大な御殿の畳を納入する御畳大工棟梁の利権と権勢は大変なものでした。
     吉広から7代後の当主が仏庵です。通称は弥太夫、諱が吉寛、字が景蓮で、 号が南無仏庵または仏庵です。あるいは至観・雲介精舎・痩竹精舎などとも号しました。
     当時、中村家の祖吉広は徳川家康の「御噺衆」の一人であったと世間で噂されていました。 中村家が町人の身分でありながら、旗本に准じる扱いを受けていたことは確かで、 仏庵自身も幕臣と同様に昌平坂学問所に学び、 松平定信と親交を結ぶなど、特別な立場にありました。
     中村仏庵が有名なのは、表の役職より、好事家としての顔です。 仏教美術や骨董の菟集家でした。 近年は別邸「清暉園」の造営や 碑石として残っている書家としての実力も再評価されています。

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    全体写真

    正月蒔絵印籠
    (しょうがつまきえいんろう)

     原羊遊斎作 

     製作年代 : 江戸時代後期
    天保後期頃(circ.1840)

     法量 :
    縦97mm×横57mm×厚22mm

     鑑賞 :
    原羊遊斎による琳派風印籠の最高傑作で、圧倒的な存在感を見せています。 定家詠花鳥十二ヶ月)の内、正月の柳鶯について詠んだ和歌に基づいた光琳屏風に基づき、 酒井抱一が下絵を描いた作品です。 元禄の尾形光琳を思わせながらも、 より華やかで精密な江戸琳派工芸の特長を出しています。
     竹に止まる鶯にちなんで、根付には「梅に鶯図」の鏡蓋根付と 大きな珊瑚珠の緒締が取り合わせられています。

     意匠 :
    藤原定家が詠んだ花と鳥に関する十二ヶ月の和歌(いわゆる定家詠花鳥十二ヶ月)の内、 正月について詠んだ和歌に基づいています。その和歌は

      柳 うちなびき 春くる風の 色なれや 日を経てそむる 青柳の糸

      鶯 春きては いく日もすぎぬ 朝戸出に 鶯きゐる 窓のむら竹

    の2首です。 これにのっとり、屋根を誇張した田舎屋と柳、窓辺の叢竹、 そして竹に止まる鶯を意匠としています。

    表写真 裏写真  製作背景 :
    定家詠花鳥十二ヶ月図の揃印籠は、古河藩主土井利厚の注文により、 同家所蔵の光琳屏風を原画に抱一が下絵を起こし、 羊遊斎が制作して毎月一本ずつ納品したものです。 それは文化初年のことでした。
     この印籠は土井家発注のオリジナルではなく、 天保期にリバイバルしたものと考えられます。 人気があったのでしょう。 デザイン的により洗練され、技術的にはより精巧で華やかになっています。

     形状 :
    昔形、紐通し付き4段の印籠で、原羊遊斎作「雪華文蒔絵印籠」 (重要文化財古河歴史博物館蔵・永青文庫蔵の2点) と同じ木型から作られており、ボディーは全く同寸法です。 この寸法の印籠は他にも見られ、いずれも天保年間に制作されたものです。 同じ印籠下地を大量に作らせ、 注文に応じてモチーフを変えて工房で制作していったことが察せられます。

     技法 :
    ・ 意匠だけでなく、技法も琳派を意識しています。 屋根には鉛、窓と柱には夜光貝を螺鈿としています。 ぼってりとした鉛の屋根は、 錆と呼ばれる漆と砥粉を混ぜたもので盛り上げ、 作銘写真 拡大写真 鉛の板自体は実は非常に薄いものです。 それは全体を鉛で作ると重くなってしまうからです。
    ・ 竹に止まる鶯は金無垢に容彫したものを埋物としています。 定家詠花鳥十二ヶ月では、鳥の存在は花よりも重要なテーマになっており、 鳥を蒔絵ではなく、精緻な金物とすることで鑑賞者の目を引くよう計画されています。
    ・ 田舎屋の上方には霞があり、裏面へと続いています。 地に蒔いてある金粉溜地の金粉よりもずっと大きい平目粉を蒔き、 同一平面に研出すことによって、この霞はできています。 また同じ平目粉は霞のようまばらに蒔かれ、鹿子金地になっています。
    ・ 印籠の段の内部は鹿子梨子地となっています。 普通上等の印籠では金梨子地としますが、 鹿子梨子地は金梨子地の中に大きく厚い平目粉をまばらに蒔いた、 最も上等な金梨子地です。塗厚の調整は難しく、 使用する金の重量も通常の梨子地の3〜4倍かかり、 特別な注文品であったと考えられます。

    底部右下に蒔絵銘があります。羊遊斎の作品では、特別な作品には「更山」印や花押を添えています。印籠の9割以上は「羊遊斎」の三字銘ですが、 この印籠では、印籠としては唯一の「羊遊斎作(花押)」銘になっており、 羊遊斎の自信の表れと考えられます。

     伝来 :
    江戸日本橋通一丁目にあった卸銅問屋に伝来し、 1990年に出現しました。それ以前の伝来は不明です。

     展観履歴 :
    1996 徳島市立徳島城博物館「近世御用蒔絵師の系譜」展
    1999 五島美術館「羊遊斎」展
    2002 国立歴史民俗博物館・岡崎市立美術館「男も女も装身具」展
    2005 MOA美術館「光琳デザイン2」展
    2008 東京国立博物館「大琳派展」
    2011 姫路市立美術館・千葉市美術館・細見美術館「酒井抱一と江戸琳派の全貌」展
    2015 京都国立博物館「琳派誕生400年記念 琳派 京を彩る」展
    2019 東京富士美術館「サムライ・ダンディズム」展

    ※和歌の現代語訳
    柳 風になびき、日ましに濃く染まる青柳の糸は、春の訪れを知らせる風の色なのだろうか。
    鶯 春が来て幾夜もすぎないというのに、朝戸を開けて外に出ると窓辺のむら竹に鶯が来てとまっているよ。

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    2005年11月12日UP
    2019年 5月 9日展示替