飯塚 桃葉 初代
(いいづか とうよう) 1725?〜1790
紫陽花蒔絵文箱
(あじさいまきえふばこ)
飯塚桃葉(初代)作
製作年代 :
江戸時代中期 宝暦14年(1764)〜寛政2年(1790)頃
法量 :
縦258mm×横83mm×高48mm
鑑賞 :
玉梨子地に高蒔絵で紫陽花を表した初代飯塚桃葉作の文箱です。
内側には蜂須賀家の替紋のひとつ「稲丸紋」と霞を研出蒔絵で表しています。
飯塚桃葉の文箱は「雁蒔絵文箱」(静嘉堂文庫美術館蔵)、「秋海棠蒔絵文箱」、
「竹蒔絵文箱」しか確認されず、稀少な作例です。
意匠 :
蓋甲から側面にかけて紫陽花を描いています。 内側には、霞に蜂須賀家の替紋「稲丸紋」が繊細に表されています。
「稲丸紋」は蜂須賀家では武具に稀に見られ、蜂須賀重喜の息女で載姫の婚礼道具のひとつと考えられている飯塚桃葉作「塩山蒔絵細太刀拵」(東京国立博物館蔵)にもみられます。
本品も載姫など、蜂須賀家姫君の所用であった可能性も考えられます。
形状 :
長方形角丸印籠蓋造で、合口に玉縁を作っています。
蓋甲はゆるく盛り、塵居を設けない、江戸中期以降に登場するやや略式の文箱です。
技法 :
・地は金梨子地を部分的に濃く蒔いた玉梨子地とし、紫陽花を焼金と青金粉の高蒔絵としています。
葉脈は付描と描割とで表し、部分的に細かい切金を規則正しく置いています。
・立上りと身の内、蓋見返しは、玉梨地に焼金粉と青金粉の研出蒔絵で霞に稲丸紋を表しています。
・鐶は銀製で、座金は蝶文で繊細な毛彫があります。
・底面は淡梨子地です。
作銘 :
前面右下に「觀松斎(花押)」の蒔絵銘があります。
「観松斎」銘は、主家である藩主蜂須賀家の注文品のみに入れられる銘です。
作銘、出来栄えから見ても藩主家所用品と考えられ、意匠や「稲丸紋」から姫君の所用品とも考えられます。
伝来 :
2022年、国内からうぶで出現しました。
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梨花精衛蒔絵印籠
(なしのはなにせいえいまきえいんろう)
飯塚桃葉(初代)作
製作年代 :
江戸時代中期
宝暦14年(1764)〜
寛政2年(1790)頃
法量 :
縦85mm×横71mm×厚20mm
鑑賞 :
極めて珍しい青漆蝋色塗金平目地に、
刊本『画図百花鳥』に描かれる「梨花に精衛」を高蒔絵と螺鈿で緻密に表わした印籠です。
徳島藩主蜂須賀家伝来品と考えられ、
緒締は孔雀石、根付は初代飯塚桃葉作「蘭蒔絵根付」が取り合わされ、
印籠紐とその結びまで当時のままです。
意匠 :
享保14年(1729)に刊行された刊本『画図百花鳥』に描かれる16番「梨花に精衛」
を意匠としています。「精衛」は古代中国の伝説上の鳥で、
夏をつかさどる炎帝の娘が東海で溺死した後に化したとされる鳥です。
嘴が白く、脚が赤い鳥とされ、原画は雌雄2羽が描かれていますが、
印籠では雌が省かれ、雄だけが描かれています。
形状 :
常形4段の印籠です。
技法 :
・非常に珍しい緑色の青漆蝋色金平目地に源氏雲と霞を肉合研出蒔絵とし、
その上に「梨花に精衛」を高蒔絵と螺鈿で表しています。
・白蝶貝を立体的に彫り上げた梨花は、象嵌ではなく、
地塗の前に配置されてから青漆平目地がなされています。
・梨の木は高蒔絵で、葉には金貝の極付や切金が緻密に施されています。
・段の内部は金梨子地になっています。
作銘 :
底部の左下に、「觀松斎(花押)」と飯塚桃葉の作銘があります。
蘭蒔絵根付 :
黒蝋色塗金平目地に高蒔絵と金貝の極付、青貝で蘭を表しています。青貝の上には見事な毛彫があります。
内側は金梨子地です。
裏面に、「觀松斎(花押)」と飯塚桃葉の作銘があります。
伝来 :
2021年に国内で出現しました。記録はありませんが、徳島藩主蜂須賀家伝来品と考えられます。
その理由は下記のとおりです。
1.根付まで現存数の少ない初代飯塚桃葉の蘭蒔絵根付が附属していること。
2.印籠・根付ともに藩主家蜂須賀家御用品に入れるべき「観松斎」銘であること。
3.印籠紐が蜂須賀家伝来の「五十三次蒔絵印籠」をはじめ、
蜂須賀家伝来もしくは蜂須賀家より下賜の印籠にみられる、印籠の下に結び目を作る極めて特殊な結び方であること。
『画図百花鳥』 :
『画図百花鳥』は、狩野探幽・常信の原画を石仲子守範が写し、俳句を添えて、
享保14年(1729)に5冊組の刊本としたものです。刊行の経緯は不明ですが、
江戸の書肆・西村源六、松栢堂出雲寺和泉掾、河内屋茂兵衛などから同時に刊行したようです。
様々な花鳥の組み合わせが100掲載されています。
飯塚桃葉作「百花鳥印籠」 :
古満安匡作「百花鳥印籠」は、
美濃国加納藩主永井家に伝来したもので、
「御印籠屏風」と呼ばれ、屏風のように掛け面連ねられていたと伝えられます。
一方、飯塚桃葉作「百花鳥印籠」は同じように『画図百花鳥』に取材したものながら、
由緒はよくわかっていません。
実際に世界各地に現存していることをフィンランドの印籠研究家
ハインツ・クレス氏が論文に発表されたことから知られるようになりました。
国内では京都国立博物館が収蔵した2点と、静嘉堂文庫美術館の3点が知られています。
古満安匡作「百花鳥印籠」が同形・同寸法であるのに対し、
飯塚桃葉は大きさも形もまちまちなようです。
偶然にもほぼ同じ時代の2人の名匠が、
同じ刊本に取材してそれぞれに100個の百花鳥印籠を作ったと考えられます。
展観履歴 :
2023 MIHO MUSEUM「蒔絵百花繚乱」展
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飯塚 桃葉 2代
(いいづか とうよう) 1766?〜1844?
岩波月蒔絵印籠
(いわなみにつきまきえいんろう)
飯塚桃葉(2代)作
寸法 :
縦45mm×横41mm×厚16mm
製作年代 :
江戸時代後期 文政8年(1825)?
鑑賞 :
2代飯塚桃葉が60歳の時に作った印籠です。
岩と波濤に三日月を肉合研出蒔絵で大胆にあしらった豪華な印籠で、
この時期には少ない徳島藩主家御用品と考えられます。
根付には金鍍金波濤鏡蓋根付、緒締には瑪瑙珠を取り合わせています。
戦後、徳島県内では飯塚桃葉の名作として知られていた作品です。
意匠 :
日の出直前の夜の海を表しています。表には躍動的な立浪の向こうに三日月の出を大胆に配し、裏には
眼鏡岩の間から浜に打ち寄せる波を描いています。
形状 :
常形3段の印籠です。側面に細く面を取っています。
技法 :
・黒蝋色塗金平目地で雲形にやや濃く蒔き、下方は金梨子地にして砂浜に見立て、
一部に絵梨子地を交えながら、
全体を肉合研出蒔絵としています。三日月は銀粉の研出蒔絵で、
岩や立浪、波飛沫は、ボリュームのある高蒔絵になっています。
岩には一部に金切金を交えています。
・段内部は、金梨子地に仕立てられています。
作銘 :
底部下の中央に「行年六十/観松斎(花押)」と蒔絵銘があります。
この花押は50歳代後半から使ったと思われ、行年銘は60〜65歳銘がみられます。
多くは桃葉銘の木地蒔絵の簡単な作品で、徳島藩士のために作ったと考えられます。
塗蒔絵地塗の入念な作品は少なく、
それらには藩主家御用品に入れた観松斎銘が入れられている傾向があります。
伝来 :
長らく徳島県内の個人方に伝来していました。
所載履歴 :
1970 中村正義『写楽』ノーベル書房
1994 『徳島県人名事典』徳島新聞社
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祖谷蔓橋蒔絵印籠
(いやのかずらばしまきえいんろう)
飯塚桃葉(2代)作
寸法 :
縦84mm×横64mm×厚21mm
製作年代 :
江戸時代後期 文政11年(1828)?
鑑賞 :
2代飯塚桃葉が晩年の63歳の時に作った印籠です。
平家落人伝説で有名な阿波の秘境に架かる「祖谷の蔓橋」の藤蔓の材を使い、
画題も同じ「祖谷の蔓橋」として木地蒔絵にした、
極めて興趣に富む印籠です。
ウイリアム・W・ウィンクワース卿(1897〜1991)、
エドワード・A・ランガム氏(1928〜2009)の旧蔵を経た名品です。
根付には梅蒔絵饅頭根付、緒締には胡桃実を取り合わせています。
意匠 :
祖谷の蔓橋
は、平家落人伝説のある阿波国西部の秘境、
祖谷溪谷に架かる吊橋で、現在では国の重要有形民俗文化財に指定されています。
この「祖谷の蔓橋」が印籠の表裏に表され、柴を背負った樵夫2人が渡る様子が描かれています。
桃葉の取材銘には「於」の字の有無が意識されており、桃葉が現地に行ったことは確実です。
2代飯塚桃葉の生没年は不明ですが、63歳の
桃葉が私的にこの辺境の地まで旅行することは考えがたいことです。
文政11年(1828)9月24日、徳島藩主蜂須賀斉昌は祖谷橋巡見を行い、
藩御用絵師の渡邊廣輝も随行して墨画「蔓橋老松図」を描いています。
2代飯塚桃葉も随行して、この材を取材した可能性が高いと考えられます。
私が、2代桃葉の生年を1766年と推定する根拠の一つとしている資料でもあります。
形状 :
常形2段の印籠です。最下段を深くしています。
技法 :
・祖谷橋の藤蔓の芯近くを刳り貫いて、印籠の素地としています。
立上がりは紫檀を刳り貫いて作り、各段に嵌め込んでいます。
・目の粗い素地に、木地蒔絵の手法で高蒔絵としています。
樵夫などは、顔の表情まで描いています。
作銘 :
底部に「取材於柤谷橋之/藤蔓/行六十三/桃葉(花押)」と蒔絵銘があります。
この花押は50歳代後半から使ったと思われ、行年銘は60〜65歳銘がみられます。
なぜか63歳の作銘には、この作品のように「行年」ではなく「行」と入っています。
この時期の作品の多くは桃葉銘の木地蒔絵の簡単な作品で、徳島藩士のために作ったと考えられます。
またそれらの中には由緒ある材木を使い、それを銘文に記したものが多くあります。
伝来 :
博覧多識で知られたウイリアム・W・ウィンクワース卿の旧蔵品で、
1978年にクリスティーズ、ニューヨークで売却され、
世界一の印籠コレクターだったエドワード・A・ランガム氏の所蔵となりました(蔵品番号1407)。
ランガム氏は叔父のウイリアム・ウィンクワース卿の旧蔵だったことから、
この印籠をことのほか愛蔵していました。
そしてランガム氏の没後、2013年にボナムス社の
第4回ランガム・コレクションの売立で売却され、約70年ぶりにようやく日本に里帰りしました。
展観履歴 :
2019 東京富士美術館「サムライ・ダンディズム」展
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2006年 6月 6日UP
2023年 6月15日更新
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