飯塚 桃葉 初代
(いいづか とうよう) 1725?〜1790
桜筏蒔絵文台(さくらいかだまきえぶんだい)
飯塚桃葉(初代)作
製作年代 : 江戸時代中期
天明頃(circ1780)
法量 :
縦348mm×横592mm×高108mm
鑑賞 :
欅木地の文台で、木地蝋研出蒔絵で桜筏を表しています。
簡素に見えながら、実は大変な技術を用いた作品です。
また現在ではほとんど現存が確認されていない
飯塚桃葉による数少ない文房具の作品として貴重です。
意匠 :
左上から右へ川を筏で下る様子を表しています。
棹で筏を操る船頭の手や足は、
指の1本1本まで描かれ、
表情も卑俗にならず豊かです。
左下には芦と蛇籠が配されています。
右上には、2本の山桜と1本の松、そして5本の若松を配しています。
その山桜の木から風にのった花が川へ散っているという趣向になっています。
芦や流水、霞の表現も桃葉らしい描法が採られています。
形状 :
通常の文台の構造です。天板と脚、筆返しからなります。
天板は一枚板の両端にハシバミを加えて変形を止め、筆返しを取り付けています。
隅金具を一切使わない簡素な作りです。
技法 :
欅の木地で、美しい木目を見せる木地蝋塗としています。
そこに模様の部分のみ研出蒔絵として、研出蒔絵の下には美しい木目が透けて見えます。
木地蝋研出に付描、技法はそれだけです。
付描は桜の蘂、松の幹の斑点、筏に使われている縄、そして銘だけです。
金具もなく、木地蒔絵でもあり、非常に簡素な作りに見えますが、
実は驚くべき高度な技が発揮されています。それは、どんなに木地の表面を整えたとしても、
下地を付けない木地蒔絵の表面には木目による凹凸や、硬さの違いがあります。
そこに、金属粉の厚みを感じさせずに、
一箇所でも研ぎ破ったら失敗となる研出蒔絵を施すことはほとんど神業に近いことです。
しかも木地蒔絵なので、失敗して研ぎ下ろすとすれば、全面を鉋で削るところからやり直
さなければならないのです。
これは注文主が、
この技術が如何に高度であるかを理解しているのかを問う作品なのです。
そして作り手は、その注文者がそれを理解できることをよく分かっていたからこそ作ったものなのです。
高蒔絵や切金、金貝など、見るからに手間が掛かっているように見える技法を一切使わず、
高度な技法をさりげなく、苦もなくこなしたかのように見せています。これは
作り手と注文者の身分を越えた信頼関係があったからこそ生まれた作品なのです。
作銘 :
左下の隅に非常に小さな字で「觀松斎(花押)」の蒔絵銘があります。
外箱 :
外箱は頑丈な桐の厚板でできており、蓋表に「上/文台」
との墨書があり、貼札には「観松斎作/蒔絵文台」とあります。
伝来 :
国内にあり、2006年に確認されました。
展観履歴 :
2020 国立能楽堂資料展示室「日本人と自然 能楽と日本美術」
2021 国立能楽堂資料展示室「日本人と自然 能楽と日本美術」
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梨花精衛蒔絵印籠
(なしのはなにせいえいまきえいんろう)
飯塚桃葉(初代)作
製作年代 :
江戸時代中期
宝暦14年(1764)〜
寛政2年(1790)頃
法量 :
縦85mm×横71mm×厚20mm
鑑賞 :
極めて珍しい青漆蝋色塗金平目地に、
刊本『画図百花鳥』に描かれる「梨花に精衛」を高蒔絵と螺鈿で緻密に表わした印籠です。
徳島藩主蜂須賀家伝来品と考えられ、
緒締は孔雀石、根付は初代飯塚桃葉作「蘭蒔絵根付」が取り合わされ、
印籠紐とその結びまで当時のままです。
意匠 :
享保14年(1729)に刊行された刊本『画図百花鳥』に描かれる16番「梨花に精衛」
を意匠としています。「精衛」は古代中国の伝説上の鳥で、
夏をつかさどる炎帝の娘が東海で溺死した後に化したとされる鳥です。
嘴が白く、脚が赤い鳥とされ、原画は雌雄2羽が描かれていますが、
印籠では雌が省かれ、雄だけが描かれています。
形状 :
常形4段の印籠です。
技法 :
・非常に珍しい緑色の青漆蝋色金平目地に源氏雲と霞を肉合研出蒔絵とし、
その上に「梨花に精衛」を高蒔絵と螺鈿で表しています。
・白蝶貝を立体的に彫り上げた梨花は、象嵌ではなく、
地塗の前に配置されてから青漆平目地がなされています。
・梨の木は高蒔絵で、葉には金貝の極付や切金が緻密に施されています。
・段の内部は金梨子地になっています。
作銘 :
底部の左下に、「觀松斎(花押)」と飯塚桃葉の作銘があります。
蘭蒔絵根付 :
黒蝋色塗金平目地に高蒔絵と金貝の極付、青貝で蘭を表しています。青貝の上には見事な毛彫があります。
内側は金梨子地です。
裏面に、「觀松斎(花押)」と飯塚桃葉の作銘があります。
伝来 :
2021年に国内で出現しました。記録はありませんが、徳島藩主蜂須賀家伝来品と考えられます。
その理由は下記のとおりです。
1.根付まで現存数の少ない初代飯塚桃葉の蘭蒔絵根付が附属していること。
2.印籠・根付ともに藩主家蜂須賀家御用品に入れるべき「観松斎」銘であること。
3.印籠紐が蜂須賀家伝来の「五十三次蒔絵印籠」をはじめ、
蜂須賀家伝来もしくは蜂須賀家より下賜の印籠にみられる、印籠の下に結び目を作る極めて特殊な結び方であること。
『画図百花鳥』 :
『画図百花鳥』は、狩野探幽・常信の原画を石仲子守範が写し、俳句を添えて、
享保14年(1729)に5冊組の刊本としたものです。刊行の経緯は不明ですが、
江戸の書肆・西村源六、松栢堂出雲寺和泉掾、河内屋茂兵衛などから同時に刊行したようです。
様々な花鳥の組み合わせが100掲載されています。
飯塚桃葉作「百花鳥印籠」 :
古満安匡作「百花鳥印籠」は、
美濃国加納藩主永井家に伝来したもので、
「御印籠屏風」と呼ばれ、屏風のように掛け面連ねられていたと伝えられます。
一方、飯塚桃葉作「百花鳥印籠」は同じように『画図百花鳥』に取材したものながら、
由緒はよくわかっていません。
実際に世界各地に現存していることから、フィンランドの印籠研究家
ハインツ・クレスが論文に発表されたことから知られるようになりました。
国内では京都国立博物館が収蔵した2点と、静嘉堂文庫美術館の3点が知られています。
古満安匡作「百花鳥印籠」が同形・同寸法であるのに対し、
飯塚桃葉は大きさも形もまちまちなようです。
偶然にもほぼ同じ時代の2人の名匠が、
同じ刊本に取材してそれぞれに100個の百花鳥印籠を作ったと考えられます。
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飯塚 桃葉 2代
(いいづか とうよう) 1766?〜1844?
岩波月蒔絵印籠
(いわなみにつきまきえいんろう)
飯塚桃葉(2代)作
寸法 :
縦45mm×横41mm×厚16mm
製作年代 :
江戸時代後期 文政8年(1825)?
鑑賞 :
2代飯塚桃葉が60歳の時に作った印籠です。
岩と波濤に三日月を肉合研出蒔絵で大胆にあしらった豪華な印籠で、
この時期には少ない徳島藩主家御用品と考えられます。
根付には金鍍金波濤鏡蓋根付、緒締には瑪瑙珠を取り合わせています。
戦後、徳島県内では飯塚桃葉の名作として知られていた作品です。
意匠 :
日の出直前の夜の海を表しています。表には躍動的な立浪の向こうに三日月の出を大胆に配し、裏には
眼鏡岩の間から浜に打ち寄せる波を描いています。
形状 :
常形3段の印籠です。側面に細く面を取っています。
技法 :
・黒蝋色塗金平目地で雲形にやや濃く蒔き、下方は金梨子地にして砂浜に見立て、
一部に絵梨子地を交えながら、
全体を肉合研出蒔絵としています。三日月は銀粉の研出蒔絵で、
岩や立浪、波飛沫は、ボリュームのある高蒔絵になっています。
岩には一部に金切金を交えています。
・段内部は、金梨子地に仕立てられています。
作銘 :
底部下の中央に「行年六十/観松斎(花押)」と蒔絵銘があります。
この花押は50歳代後半から使ったと思われ、行年銘は60〜65歳銘がみられます。
多くは桃葉銘の木地蒔絵の簡単な作品で、徳島藩士のために作ったと考えられます。
塗蒔絵地塗の入念な作品は少なく、
それらには藩主家御用品に入れた観松斎銘が入れられている傾向があります。
伝来 :
長らく徳島県内の個人方に伝来していました。
所載履歴 :
1970 中村正義『写楽』ノーベル書房
1994 『徳島県人名事典』徳島新聞社
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祖谷蔓橋蒔絵印籠
(いやのかずらばしまきえいんろう)
飯塚桃葉(2代)作
寸法 :
縦84mm×横64mm×厚21mm
製作年代 :
江戸時代後期 文政11年(1828)?
鑑賞 :
2代飯塚桃葉が晩年の63歳の時に作った印籠です。
平家落人伝説で有名な阿波の秘境に架かる「祖谷の蔓橋」の藤蔓の材を使い、
画題も同じ「祖谷の蔓橋」として木地蒔絵にした、
極めて興趣に富む印籠です。
ウイリアム・W・ウィンクワース卿(1897〜1991)、
エドワード・A・ランガム氏(1928〜2009)の旧蔵を経た名品です。
根付には梅蒔絵饅頭根付、緒締には胡桃実を取り合わせています。
意匠 :
祖谷の蔓橋
は、平家落人伝説のある阿波国西部の秘境、
祖谷溪谷に架かる吊橋で、現在では国の重要有形民俗文化財に指定されています。
この「祖谷の蔓橋」が印籠の表裏に表され、柴を背負った樵夫2人が渡る様子が描かれています。
桃葉の取材銘には「於」の字の有無が意識されており、桃葉が現地に行ったことは確実です。
2代飯塚桃葉の生没年は不明ですが、63歳の
桃葉が私的にこの辺境の地まで旅行することは考えがたいことです。
文政11年(1828)9月24日、徳島藩主蜂須賀斉昌は祖谷橋巡見を行い、
藩御用絵師の渡邊廣輝も随行して墨画「蔓橋老松図」を描いています。
2代飯塚桃葉も随行して、この材を取材した可能性が高いと考えられます。
私が、2代桃葉の生年を1766年と推定する根拠の一つとしている資料でもあります。
形状 :
常形2段の印籠です。最下段を深くしています。
技法 :
・祖谷橋の藤蔓の芯近くを刳り貫いて、印籠の素地としています。
立上がりは紫檀を刳り貫いて作り、各段に嵌め込んでいます。
・目の粗い素地に、木地蒔絵の手法で高蒔絵としています。
樵夫などは、顔の表情まで描いています。
作銘 :
底部に「取材於柤谷橋之/藤蔓/行六十三/桃葉(花押)」と蒔絵銘があります。
この花押は50歳代後半から使ったと思われ、行年銘は60〜65歳銘がみられます。
なぜか63歳の作銘には、この作品のように「行年」ではなく「行」と入っています。
この時期の作品の多くは桃葉銘の木地蒔絵の簡単な作品で、徳島藩士のために作ったと考えられます。
またそれらの中には由緒ある材木を使い、それを銘文に記したものが多くあります。
伝来 :
博覧多識で知られたウイリアム・W・ウィンクワース卿の旧蔵品で、
1978年にクリスティーズ、ニューヨークで売却され、
世界一の印籠コレクターだったエドワード・A・ランガム氏の所蔵となりました(蔵品番号1407)。
ランガム氏は叔父のウイリアム・ウィンクワース卿の旧蔵だったことから、
この印籠をことのほか愛蔵していました。
そしてランガム氏の没後、2013年にボナムス社の
第4回ランガム・コレクションの売立で売却され、約70年ぶりにようやく日本に里帰りしました。
展観履歴 :
2019 東京富士美術館「サムライ・ダンディズム」展
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2006年 6月 6日UP
2023年 2月13日更新
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