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  •  飯塚 桃葉 初代 (いいづか とうよう) 1725?〜1790
    鶴丸紋

     流派: 山田派か

     略歴:
    江戸中期に江戸で活躍した徳島藩主蜂須賀家の御用蒔絵師です。 印籠の名工で、『装剣奇賞』印籠工名譜に「桃葉斎」として採録されています。 通称は源六、諱を秀久としました。私の推測では将軍家の御差鞘蒔絵師・御印籠師であった 山田常嘉の門人です。
     宝暦14年(1764)、徳島藩主の蜂須賀重喜に十五人扶持で召抱えられ、「桃葉」と改名し、 細工銘を「観松斎知足」とするよう命じられました。  十五人扶持という俸給は徳川将軍家の御蒔絵師たる幸阿弥因幡の十人扶持をしのぐもので、実に破格の待遇といえます。 装剣奇賞
     飯塚桃葉の仕事の大部分は、明和6年(1769)、藩主重喜が藩政改革の失敗により、 幕府の命によって34歳で隠居させられた後のものです。 翌年から桃葉は次の藩主治昭の直支配となりました。 前藩主重喜の幕府への憤懣と無聊を慰めるために、 印籠や武具・文房具・茶道具・調度類を多数製作しました。 特に将軍家奥絵師筆頭の狩野栄川院典信と蜂須賀家が親しかったため、 典信下絵の作品が数割を占めています。 また狩野美信・土佐光貞の下絵によるものもあります。
     天明7年(1787)に剃髪し、寛政2年(1790)に江戸で没しました。
     生年・没年齢は不明ですが、 私は66歳没と推測しており、さすれば享保10年(1725)の生まれとなります。
     明治維新後、蜂須賀家が明治天皇に献納した「宇治川螢蒔絵料紙箱・硯箱」(三の丸尚蔵館蔵) の作者として古来有名で、江戸時代を代表する蒔絵師の一人です。

     門人:
    飯塚桃葉(2代)・高梨桃壽・桃花・花航斎桃里

     逸話:
    桃葉がまだ源六と名乗って、江戸の一町蒔絵師であった頃のことです。 徳島藩主蜂須賀重喜が、当時江戸市中で印籠の名人として知られた源六に注文を出しました。 蜂須賀家の使者は、「わが殿の庭履きの下駄に蒔絵をするように」と 黒漆地に水の流れに水草を配した下図を示して依頼しました。すると 「自分の蒔絵は印籠に施すべき技で、下駄なんぞに蒔絵なんかするもんか」 と憮然として断わりました。使者は立ち帰って恐るおそる藩主重喜に言上すると、 怒るどころか、かえってその気概に感じ入り、召抱えたと伝えられます。 召抱えの後、しばらく経って、また下駄に蒔絵をするよう命じられました。 今度はお抱えゆえに、桃葉も仕方なく製作したところ、 重喜はその出来を賞し、履くことなく、火中に投じたとも云われています。
     後日談の方はともかく、召抱えの時の話は事実であったと私は信じます。 この逸話は、桃葉の印籠蒔絵師としてのプライドと、それを理解した上で重喜が召抱えたこと、 さらには重喜が桃葉の最大の理解者になったことを示しています。 実際に現存する作品に見る、桃葉の完璧なまでの仕事ぶりと、 数百点という異常なまでの藩主御用品の数こそが、 2人の身分を越えた信頼関係を如実に伝えています。
     桃葉は職人気質の人物で、衣服にかまわず、夏に至っては、 絹のふんどし一つでセッセと仕事をしていました。 貴人が桃葉を招く際は、衣服を与え、雨の日にはそれに下駄と傘も用意したともいわれています。 絵画や指頭画も得意で、藩主の御前で席画もしたようです。 また一方では、茶人として石州流の吉田宗雪にも師事しています。

     半田稲荷神社の石狐:
    東京都葛飾区東金町にある半田稲荷神社の白狐殿には、 天明8年(1788)に飯塚桃葉が再興した一対の石狐があり、 葛飾区登録有形文化財に指定されています。 ここは日本橋から4里もあり、これまで飯塚桃葉との関係は全く知られていませんでした。
     すぐそばの中川に沿った地域は、その昔は飯塚村と言いました。 村の名は消滅しましたが、今でも飯塚橋・飯塚小学校などにその名残があります。 おそらく桃葉は飯塚村の貧農の出で、江戸に出て蒔絵師になり、 蜂須賀家から士分で召抱えられた際に出身地を苗字にしたのだと思われます。 桃葉が徳島藩に提出した「成立書」に「姓不知」と書き添えられているのは、 そうした事情によるものでしょうか。 石狐は江戸で名をなした桃葉が故郷へ錦を飾るように、故郷の神社に奉納したのでしょう。
     しかし桃葉がどのようにして、山田常嘉の門人となり、 蜂須賀家の使者が訪ねて来るほどの名工となったのか、さらに謎は深まりました。 石狐の刻銘は、飯塚桃葉と下総国西葛西郡飯塚村とを結びつける唯一の証です。

    飯塚村








    半田稲荷社










    半田稲荷社 半田稲荷社














     作品を所蔵する国内の美術館・博物館:

    ・皇居三の丸尚蔵館(「宇治川螢蒔絵料紙箱・硯箱」
    ・東京国立博物館(雲龍蒔絵笛筒・塩山蒔絵太刀拵芦雁蒔絵印籠芦鷺蒔絵印籠
    ・京都国立博物館(笑靨櫻獦子鳥蒔絵印籠豆藤小陵鳥蒔絵印籠
    ・東京藝術大学大学美術館(蝶鳥蒔絵印籠
    ・静嘉堂文庫美術館(富士山水蒔絵硯箱・雁蒔絵文箱・孔雀蒔絵印籠・御簾葵蒔絵印籠・碇蒔絵印籠・獅子蒔絵印籠・雪芭蕉蒔絵印籠・小督仲国蒔絵印籠・芝蘭鶇蒔絵印籠・李紅雀蒔絵印籠・月季花吐綬鶏蒔絵印籠・葛鶸蒔絵印籠)
    ・根津美術館(百草蒔絵薬箪笥)
    ・永青文庫(柏寿字蒔絵鞍鐙・孔雀蒔絵印籠・猪蒔絵煙草入・和歌蒔絵印籠)
    ・武蔵野音楽大学楽器博物館(雲龍蒔絵笛筒
    ・東京富士美術館(紅葉蒔絵印籠
    ・徳島県立博物館(瀟湘八景蒔絵筝鶏蒔絵印籠・石榴八頭蒔絵印籠)
    ・徳島市立徳島城博物館 (鳴門蒔絵鐙熊笹蒔絵鞍鐙・卯花時鳥蒔絵紙台・扇蒔絵広蓋・鳳凰蒔絵印籠)
    ・大阪市立美術館(蓬莱蒔絵料紙硯箱・御簾葵蒔絵印籠・丁子草尾長蒔絵印籠・桜馬蒔絵印籠)
    ・飯田市美術博物館(波千鳥蒔絵印籠)
    ・海南町立博物館(牛車蒔絵印籠)
    ・立花家史料館(祇園守紋蓬莱蒔絵盃

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     飯塚 桃葉 2代 (いいづか とうよう) 生没年未詳

     略歴:
    2代飯塚桃葉は初代飯塚桃葉の実子で、諱は秀栄です。 はじめ桃枝と号し、ついで桃子と号しました。
     寛政2年(1790)、父飯塚桃葉の死没により、徳島藩の御用蒔絵師としての家名を相続して、 二十人扶持を給されました。 翌年藩主より観松斎知足と改名を命じられ、さらに桃葉と改名を命じられました。 享和元年には、蜂須賀重喜七女、寿美姫の婚礼調度を製作しました。
     初代桃葉と同じように、幕府奥絵師で木挽町狩野家の栄川院典信下絵の作品のほか、 徳島藩御用絵師の鈴木芙蓉や渡辺広輝の下絵を用いた作品もあります。晩年、縫雪を号しました。 使用した花押は9種類以上に及び、 また藩主以外の注文に桃水・桃川などとも銘したと考えられています。

     住居:
    文政期には、江戸の鍛冶橋門内、大名小路にあった徳島藩上屋敷に住んでいたことが判明しています。

     作品を所蔵する国内の美術館・博物館:

    ・東京国立博物館(鶏烏蒔絵印籠
    ・大阪市立美術館(鬼灯蒔絵印籠・百合蒔絵印籠)
    ・徳島市立徳島城博物館 (桐鳳凰蒔絵卓・千鳥蒔絵印籠)

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     飯塚 桃葉 3代 (いいづか とうよう) 1806?〜1864

     略歴:
    私の推測によれは、江戸の生まれで、2代桃葉の外孫です。 妻は幕府御細工所支配の御蒔絵師、榎本筑後の妹です。 初名が桃秀で、後に桃葉と改名し、観松斎を号しました。 また別号を一草庵としました。
     幕末に国許の徳島、富田浦に移住し、元治元年(1864)に没しました。

     作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
    ・静嘉堂文庫美術館(蝦蟇仙人蒔絵印籠)
    ・大阪市立美術館(水仙水注蒔絵印籠)
    ・徳島市立徳島城博物館(金太郎烏天狗蒔絵印籠・源氏香蒔絵縁高)


    2006年 6月 6日UP
    2013年11月 8日更新