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  •  田村 壽秀 (たむら としひで) 1757〜1833?

    土筆蒔絵棗(つくしまきえなつめ)

     田村壽秀作 仁孝天皇御物

     製作年代 : 江戸時代後期
    文政頃(circ.1820)

     法量 :
    径67mm×高66mm

     鑑賞 :
    黒蝋色塗地に土筆を高蒔絵した中棗です。 仁孝天皇の御物で、天保元年(1830)に関白・鷹司政通(1789〜1868) が拝領し、さらに天保4年(1833)に鷹司政通が実子の興正寺門跡・大教正摂信に譲った作品です。 皇室から下賜され、明治45年(1912)までの伝来が詳細に判明する 京都の漆工史上、極めて重要な作品です。 全体写真

     意匠 :
    蓋甲と側面に土筆を配置した棗としては珍しい意匠です。

     技法 :
    黒蝋色塗地に高蒔絵で表現しています。 杉菜は青金で、胞子茎は焼金を描割りにして、洗い出しとしています。 内側は黒漆の真塗りです。

     作銘 :
    底の左に非常に小さく「寿秀(花押)」と蒔絵銘があります。 

     仕覆 :
    網牡丹緞子の仕覆が附属しています。 

    作銘写真 共箱落款写真  内箱(共箱) :
    共箱は四方桟蓋の桐箱で、表書は「土筆 棗」と書かれています。 見返しには「寿秀」の墨書と「壽秀」の白文長方形朱印があります。 また関白鷹司政通が拝領した際の書付が「主上御手賜之/天保元年十二月廿六日/関白(花押)」とあります。 つまり仁孝天皇が御自身の手で政通に直接賜わり、政通が自ら墨でその経緯を書き付けたのです。 「主上御手賜之」というところに、政通の感動の様子を窺うことができます。

     外箱 :
    3年後の天保4年(1833)、 鷹司政通はこの棗をさらに実子の興正寺門跡大教正摂信に譲りますが、 その際、さらに外箱が作られ二重箱とされました。 外箱は印籠蓋造の桐箱で、緑色の真田紐が付いています。 表書は「土筆棗」、見返しに「天保四年正月念六殿下賜之/権僧正摂信(花押)」とあり、 摂信が書き付けています。

     書付 :
    これらの経緯を記した書付も附属しています。 「記/天保元寅年十二月廿六日/仁孝天皇御直ニ/ 鷹司関白従一位政通公ニ廿六日/廿六日 /賜/同四巳年正月興正寺門跡大教正摂信ヘ譲賜/子澤釈誌之/明治四十五年/永存大切互申候/六十一歳」 とあり、摂信からさらにその子、 澤釈に譲られ、明治45年(1912)に記録して添えたのでした。

    書付写真  伝来 :
    仁孝天皇、鷹司政通、華園摂信、華園澤称と伝わりました。つまり近代まで京都・興正寺門跡に伝来しています。 2006年に国内で出現しました。

     仁孝天皇(1800〜1846) :
    光格天皇の第六皇子で、 文化14年(1817)に即位した第120代天皇です。諡号を復興し、学習所の創設を計画されました。 弘化3年(1846)に崩御されました。 御日常に学問を奨励され、印籠を好まれ、近臣にも下賜されました。

     鷹司政通(1789〜1868) :
    内箱外箱書付写真 五摂家の一つ、鷹司家の幕末の当主です。関白・鷹司政熙の長男に生まれ、 文政6年(1823)に関白に、天保13年(1842)には太政大臣に就任しました。 長年にわたり関白として、朝廷内で権力をふるいました。 安政3年(1856)には異例の太閤の称号を孝明天皇から贈られています。 はじめ開国論者でしたが、攘夷派となって幕府の怒りに触れ、 出家しました。 仁孝天皇の后繋子が政通の妹であるため、仁孝天皇の義兄にもあたります。

     華園摂信(1808〜1877) :
    鷹司政通の次男で、興正寺第27世の住職となりました。大僧都・法印・僧正・大教正をつとめました。




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    全体写真

    菊蒔絵棗
    (きくまきえなつめ)

     田村壽秀作 光格上皇御物

     製作年代 :
    江戸時代後期 文政4年(1821)

     法量 :
    径82mm×高60mm

     鑑賞 :
    黒蝋色塗地に大輪の菊をただ1つだけ高蒔絵にした印象的な作品です。共箱で、 しかも年齢・年紀が入った基準作品で、 光格上皇の所用品でもあります。京都の漆工史上、極めて重要な作品です。

     意匠 : 拡大写真
    大輪の八重菊をただ1つだけ、肩にバランスよく配置しています。 もとより菊花は皇室の御紋章でもあり、御物にふさわしい意匠です。

     技法 :
    黒蝋色塗地高蒔絵で表現しています。 花びらの1枚1枚を高上げして形作り、花びらの隙間を描き割りにして谷を作っています。 花芯は青金粉溜地に付描で点を打って表現しています。
     棗の内側は、黒漆の真塗りで、釦は金地です。

     作銘 :
    底の左に「寿秀(花押)」の蒔絵銘があります。花押が入った作銘は、晩年の数点にしか見られません。 

     共箱 :
    銘写真 箱写真 共箱は四方桟蓋の桐箱で、濃萌黄色の真田紐が付いています。 表書は「大海棗/菊蒔絵」とありますが、 これは見込みの広い茶器が「大海」と呼ばれているためです。 蓋見返し左下には壽秀が制作した際の「文政辛巳秋日/六十五歳/寿秀作」の墨書 と「壽秀」の白文長方形朱印があります。 右には「天保四年三月十八日/従 洞中拝領御/物之由従殿下拝棗」との墨書があって、 これは「洞中」つまり仙洞御所=光格上皇から拝領した際に拝領者が書き付けたものです。 また箱の身の見込みには「袋/ランケン裂/乱絹」との墨書があり、仕覆が襴絹であったことが分かります。

    箱蓋表写真 箱蓋見返写真 箱見身見込写真








     光格天皇 :
    光格天皇(1771〜1840)は第119代天皇で、安永8年(1780)に即位され、 文化14年(1817)に譲位されて上皇となりました。
     意外なことに、光格天皇は印籠を収集される趣味をお持ちでした。 京都は印籠の発祥地ながら、その後、武家の政権は江戸に移ったため、印籠の需要が多くありませんでした。 しかし、光格天皇が黒蝋色塗地に研出蒔絵の優美な印籠を好まれ、 宮門跡・堂上貴紳の間でも印籠が流行したため、京都でも壽秀など、印籠の名工も登場するに至りました。 光格天皇(あるいは上皇)から下賜という印籠の存在もいくつか知られています。
     かつて、光格天皇から拝領という箱書きのある桐木地鶴蒔絵の印籠掛を見たことがあります。 孝明天皇は四曲の屏風状の印籠掛に数十個の印籠を掛けて叡覧されたと伝えられていますが、 光格天皇も同様だったのでしょう。




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    2007年11月24日UP
    2022年 1月 16日更新