勝軍木庵 光英 (ぬるであん みつひで)
1802〜1871
「京都東都蒔絵印籠」 (きょうととうとまきえいんろう)
勝軍木庵光英作
製作年代 : 江戸時代末期
安政頃(circ.1850)
法量 :
縦85mm×横45mm×厚26mm
鑑賞 :
京都と東都(江戸)の名所を両面に振り分け、緻密に表した印籠です。
その意匠は、寛政9年(1797年)刊行の『東海道名所図会』の挿絵に着想しています。
大名好みの豪奢な高蒔絵で、松江藩主所用品とも思われます。
金銅七々子地六葵紋七宝の鏡蓋根付と珊瑚緒締が取り合わされています。
勝軍木庵光英の印籠は遺作が極めて少なく(現存確認数は本作を含め9点)、
特に本作は1987年以来行方不明だった作品で、貴重です。
意匠 :
東海道の起終点にあたる京都の三条大橋と東都(江戸)の日本橋をモチーフの中心にしています。
その構図は寛政9年(1797年)刊行の『東海道名所図会』の挿絵に着想したことは明らかです。
京都の三条大橋と三条河原町の景はほぼ挿絵の通りで、遠景は東山で「芝居」・「祇園」・「知恩院」・「双林寺」・「東大谷」・
「八坂」・「丸(円)山」・「高台寺」・「清水」・「大仏(方広寺)」・「三十三間堂」が描かれ、地名の名所札もほぼそのままです。
一方、東都の日本橋は視点の角度は違いますが、『東海道名所図会』を参考にしたのは明らかです。「日本橋」を中心に日本橋通一丁目と高札場や対岸の魚河岸周辺の活況、江戸城・富士山を描いています。
日本橋を渡る大名行列は、金紋先箱、二本道具で、大名駕籠や飾馬なども細々と描き込まれています。
遠景の「見付」・「御城」の名所札は挿絵にはありませんが京都の表現にあわせて増やしたのでしょう。
高蒔絵の富士山が印象的です。
田部美術館所蔵の作品は、文久3年(1863)の作で、形状が異なり、ほぼ同構図で、さらに共箱まで附属し、表書に「印籠 京都三條橋 東都日本橋 蒔絵 六十二翁 勝軍木庵」
との墨書があります。本作は同じ図様であるため、「京都東都蒔絵印籠」としました。
形状 :
縦長の4段で天地は甲を盛らず平面とし、また角を面取りしています。
立ち上がりの木地は非常に薄く軽く作られています。元禄期の古印籠の素地を再利用したものと考えられます。
技法 :
・ 金粉溜地に緻密な高蒔絵で、雲や山は、
錆漆で盛り上げ、無数の切金を置いています。
盛り上がった雲が水平に何重にも重なる様は、
ちょっと他に例を見ない異様な作風です。田部美術館所蔵の作品では、雲に切金を置いてはいません。
名所の名札には黒漆で地名を書き入れています。人物には色漆を交え、
東都に52人、京都に39人が描かれています。
こうした金粉溜地に緻密な高蒔絵の名所図は、
師家の梶川家が得意としてきた作風の一つです。
・ 天部は、両面の遠景から続いて「天」になりますので、
鹿子金地に青金の研出蒔絵で雲を表しています。
一方、底部では金地に、平目粉を蒔かずに、青金で霞を研出蒔絵としています。
・ 中は金梨子地になっています。元禄期の素地を再利用したものと考えられ、
金梨子地も当時のままと考えられます。
作銘 :
印籠の底、左下には「光英作」の蒔絵銘と「宗」と朱漆書きによる朱文方形印があります。勝軍木庵光英は、名が宗一でしたので、「宗」と入れたのです。
通常、「光英」・「光英作」・「光英造」などと銘書する勝軍木庵光英が、
印まで加えたのは、やはり特別な作品だったからでしょう。
勝軍木庵光英の印籠 :
現存が確認されている勝軍木庵光英の印籠は、世界で下記のわずか8点です。
1.「東海道五十三次蒔絵印籠」田部美術館
2.「兜蒔絵印籠」田部美術館
3.「富士蒔絵印籠」島根県立美術館
4.「雲龍蒔絵印籠」静嘉堂文庫美術館
5.「蝦蟇仙人蒔絵印籠」現所在不明
6.「富士押絵蒔絵印籠」ライデン国立民族学博物館
7.「波龍蒔絵印籠」現所在不明
8.「楽器尽蒔絵印籠」現所在不明
展観履歴 :
1987 島根県立博物館「島根の工芸名品展」
2019 東京富士美術館「サムライ・ダンディズム」展
所載履歴 :
『島根の工芸』 (1987 島根県立博物館)
伝来 :
1987年の「島根の工芸名品」展に出品されて以来、長年行方不明でした。
この間、あるグループ会社の資産となっていました。
2005年、約18年ぶりにその存在を確認しました。
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