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  •  田村 壽秀(たむら としひで) 1757〜1833? 田村壽秀作「七賢蒔絵七組盃」附属文書

     略歴:
    文化・文政期に京都で活躍した印籠蒔絵師です。 姓は田村または田邑、名は壽秀、字は長蘭、通称が重兵衛で、東溪また紫水亭とも号しました。
     明治以来、長年にわたり苗字が「田付」と伝えられ、 京都の蒔絵の旧家、田付家の子孫であるかのように扱われてきましたが、 誤りであることを「印籠蒔絵師『田村壽秀』をめぐる問題」(『漆工史』30号 2007年 漆工史学会)で証明しました。 自署にも「田村」と「田邑」が両方あります。
     はじめ絵師になろうと四条派の祖・松村呉春に画を学びましたが、 当時の京都には絵師が大勢いましたので、断念して印籠蒔絵師に転向し、 通称が重兵衛であったことから「印籠重」とも呼ばれました。
     作風は塩見政誠のような研出蒔絵を得意としました。 印籠コレクターでもあった光格天皇(1771〜1840)・仁孝天皇(1800〜1846)のために、 印籠や棗などを制作しています。
     特に光格天皇には格別贔屓にされ、「御印籠・御硯箱・御手道具」を作ったことが田村壽秀作「七賢蒔絵七組盃」の附属文書によって明らかになりました。
     また賀茂季鷹(1751〜1841)・上田秋成(1734〜1809)・円山応挙(1733〜1795)・ 松村呉春(1752〜1811)・岡本豊彦(1773〜1845)・原在中(1750〜1837)・村上東洲(?〜1820)・岸駒(1756〜1839)・慈周(1734〜1801)・皆川淇園(1735〜1807)・ 村瀬栲亭(1744〜1819)・柴野栗山(1736〜1807)など、同時代の文化人と直接の交流がありました。

    平安人物誌  住居:
    常に裏長屋に住んで、転居を繰り返したと伝えられています。 文政13年版(1831)の『平安人物誌』によれば、 当時は高倉御池南に住んでいたことがわかっています。

     逸話:
    性淡逸で世俗と交わることを好まず、金銭を得ればこれを懐に瓢然と家を出て花街に留連し、 ついには芸妓某を落籍して妻としました。 ほどなくその妻が亡くなると、居常不自由だが家累を脱し、 芸道のためにはかえって幸いと語ったそうです。まず、ひねくれ者の変人と言ってよいでしょう。 名工にありがちなタイプです。
     余技に狂歌をよくし、国学者で歌人の賀茂季鷹と親しかったと伝えられます。 また蒔絵の先人である塩見政誠 の行状を慕ったとも伝えられ、作風も塩見政誠に似ています。

     田村壽秀作「七賢蒔絵七組盃」の附属文書:
    2021年11月に出現した新出作品に附属する書付です。 柴野栗山・住吉広行『寺社寳物展閲目録』や伊勢貞丈『貞丈雑記』などにも記されて有名な京都東山・銀閣寺の什宝で 相阿弥筆とされる「七賢杯」を、文政3年(1821)に壽秀が模作した作品に附属していたものです。 「光格天皇御愛嗜蒔繪師/田村重兵衛壽秀(トシヒデ)」から始まり、 壽秀の事歴と「銀閣寺什・七賢杯」のいわれが記されています。 内容は相当詳細で、壽秀と直接関係があった発注者しか知りえない内容であり、 天保末から幕末頃に所有者によって記されたものと考えられます。 これにより、長年「ひさひで」と云われていた読み方も、「としひで」の可能性が高くなりました。
     また壽秀について「應擧 呉春 岸駒 六如 皆川 栲亭 彦輔 ト友タリ」ともあります。 円山応挙・松村呉春・岸駒については、既に壽秀作品に下絵銘のある作品を確認して把握していました (「印籠蒔絵師『田村壽秀』をめぐる問題(補遺)」『漆工史』35号 2013年 漆工史学会)。 しかし、六如こと慈周・皆川淇園・村瀬栲亭・彦輔こと柴野栗山については初見です。 挙げられた人物同士の交友もすでに知られているので、信憑性は極めて高いと考えられます。 特に村瀬栲亭は妙法院門跡・妙法院宮真仁法親王のサロンの中心人物で、 その交際範囲の人物が多く含まれていることが注目されます。光格天皇の御用を勤めるようになったのは 寛政年間と考えられることから、年代的にもこのあたりの人物に遠因があるのではないかとも推定されます。
     「光格天皇御愛嗜蒔繪師」あるいは「仙洞御所様深御ヒイキ」といった記述からは、 私的で格別な皇室御用を拝命していたことが察せられ、また学者や学僧との交流は、 国学に傾倒し、皇室への崇敬の念が高かったことが窺われます。  田村壽秀作「七賢蒔絵七組盃」附属文書

     光格天皇:
    光格天皇(1771〜1840)は第119代天皇で、安永8年(1780)に即位され、 文化14年(1817)に譲位されて上皇となりました。
     意外なことに、光格天皇は印籠を収集される趣味をお持ちでした。 京都は印籠の発祥地ながら、その後、武家の政権は江戸に移ったため、印籠の需要が多くありませんでした。 しかし、光格天皇が黒蝋色塗地に研出蒔絵の優美な印籠を好まれ、 宮門跡・堂上貴紳の間でも印籠が流行したため、京都でも壽秀など、印籠の名工も登場するに至りました。 光格天皇(あるいは上皇)から下賜という印籠の存在もいくつか知られています。
     かつて、光格天皇から拝領という箱書きのある桐木地鶴蒔絵の印籠掛を見たことがあります。 孝明天皇は四曲の屏風状の印籠掛に数十個の印籠を掛けて叡覧されたと伝えられていますが、 光格天皇も同様だったのでしょう。 御所







     作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
    ・東京国立博物館(百壽蒔絵印籠鮎蒔絵印籠
    ・國學院大學博物館(山水芦水鳥蒔絵印籠・秋海棠蒔絵印籠) 
    ・三井記念美術館(翁面蒔絵印籠) 
    ・佐野美術館(芦鳩蒔絵印籠)
    ・徳川美術館(二見浦富士蒔絵印籠)

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    作品を見る⇒
    2007年11月24日UP
    2022年 1月15日更新