中大路 茂永 (なかおおじ もえい) 生没年未詳
略歴:
江戸後期の京都の印籠蒔絵師。中大路茂房の弟で、通称が次郎兵衛で、諱と号が茂永です。
ですから「しげなが」であり、「もえい」でもあります。
そもそも中大路氏は代々、上別雷神社(上賀茂神社)の祀官であり、
茂永はその支族の家に生まれたと伝えられます。
兄の茂房が天保元年(1830)に33歳の若さで病没し、その跡を継ぎ、その作風をよく守りました。
また孝明帝即位道具に蒔絵しています。
蒔絵師でしたが、覇気を有し、碌々としてこの業につくことをよしとせず、
幕末の時事に憤慨して、蒔絵をやめて一橋徳川家に仕えたと伝えられていますが、
その後どのような人生を歩んだか全くわかっていません。
住居:
中大路茂永のルーツとされる、京都の
上別雷神社(賀茂神社)の社家町には、現在でも中大路町の地名が残っています。
茂永自身は京都猪熊下立売下ル所に住したと伝えられます。
作品:
在銘作品はほとんどが印籠です。他に、三組盃と棗、香合1点ずつの現存を確認しています。
孝明天皇:
孝明天皇(1831〜1867)は第121代天皇で、内憂外患の幕末の混乱期に在位されました。
一方で孝明天皇は大変に印籠を好まれたという意外な一面をお持ちでした。
万延・文久の頃、ある大名が献上した印籠がお気に召し、印籠を
集めはじめられました。
当時の京都では武家人口が少なく、印籠はすっかり廃れていました。
そのため初めは江戸出来の金地小判形の印籠を好まれましたが、
孝明天皇のご趣味により、京都の蒔絵師も様々な印籠を手がけるようになり、
光格天皇・仁孝天皇の頃の活況となりました。
中大路茂永のほかにも山本光利・戸島光正・永田習水などが印籠蒔絵師として作品を納めました。
孝明天皇は四曲の屏風状の印籠掛に数十個の印籠を掛けて叡覧あられたと伝えられます。
現在、宮内庁三の丸尚蔵館には、孝明天皇の遺品として皇女和宮に譲られた印籠として、山本光利の
「虎蒔絵印籠」など京都の印籠蒔絵師の印籠や、光柳・光斎などの江戸の印籠が所蔵されています。
孝明天皇御宸筆「印籠御留」:
2022年3月、宮内庁三の丸尚蔵館主任研究官・五味聖氏が「孝明天皇ゆかりの印籠について(二)」という論文を発表されました。
孝明天皇の御宸筆になる「印籠御留」(東山御文庫蔵 勅封 第172番-2-17)について翻刻・公開されたもので、
光格天皇・仁孝天皇・孝明天皇の印籠収集がより具体的に判明しました。
孝明天皇が好んで印籠を作らせたのは当時活躍していた山本光利と中大路茂永でした。
とくに中大路茂永は「伝来之部」すなわち光格天皇・仁孝天皇からの伝来品には3点だけでしたが、
その後さらに25点も収集して所有されていたことが判明しました。
作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
・東京国立博物館(鳩蒔絵印籠)
・静嘉堂文庫美術館(槙猪蒔絵印籠・桜頬白蒔絵印籠)
・掛川市二の丸美術館(猪蒔絵印籠)
・國學院大學博物館(鹿蒔絵印籠)
↑先頭に戻る 作品を見る⇒
|