永田 習水
(ながた しゅうすい) 1818〜1895
流派: 京蒔絵・琳派
家系:
永田家は安永年間以後、禁裏蒔絵常職を仰せ付けられ、
上京畠山町に住んで御所の蒔絵御用を勤めた家柄で、永田文五郎と称していました。
永田友治
の子孫です。
略歴:
永田習水は、河口某の子に生まれ、河口友祐と称しました。
母が永田文五郎の娘で、つまり永田文五郎は外祖父にあたります。
その永田文五郎に蒔絵を習い、
さらに浅野友七(初代)にも師事したため、橘屋を称しました。
安政年間、御所の炎上により、島津家より進献の屏風箪笥の制作に参画し、
安政6年(1859)には和宮降嫁道具に蒔絵をしました。
慶応元年(1865)に、外祖父の永田文五郎が没し、
跡継ぎなく絶家するところを、その血統であるゆえに
格別に禁裏蒔絵常職を命じられました。
慶応3年(1867)には、明治天皇即位の道具に蒔絵もしています。習水の号は、中山忠能卿(明治天皇の外祖父)が与えたもので。
韓非子の「水は方円の器に従い、人は善悪の友による」に拠ったと伝えられます。
明治維新後は東京と京都を往来して、鞘の蒔絵等をしました。
実際に国立歴史民俗博物館には、柳原家の獅子蝶蒔絵の毛抜形太刀拵が現存しており、
華族の儀式用の太刀拵の鞘などに蒔絵していたと思われます。
晩年は「喜翁」、「定翁」とも号していたようです。明治28年(1895)、78歳で没しました。
子の永田貞次郎(習友)は京都に在り、上京区第十組裏築地町で
明治19年(1886)まで漆器販売業をしていたことが分かっています。
後に東京に移りました。孫の右一郎(習水)も東京で漆工を業としていました。
住居:
京都室町上立売南入町に住みました。東京移住後は小石川柳町16に住みました。
逸話:
業余に茶道を千宗室に学びました。
一方で酒好きだったようです。東京小石川柳町の新居は、汚い長屋でしたが、
酒屋の隣だったのが気に入って住んだと伝えられます。
御屏風箪笥:
御屏風箪笥は御所炎上の御見舞として、
薩摩藩主島津家より皇室に献上したものです。
その意匠は九条家より出て、製作は近衛家に委託されました。
意匠は、箪笥の表が原在照の下絵で「近江八景図」と「奈良八景図」、
裏は横山華山の下絵で「馬に桃林牛図」でした。
製作は、青山勘治、浅野友七、木下徳兵衛、永田習水、藤井満喬、山本武光らで合作しました。
薩摩藩の費用は莫大でした。
作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
・国立歴史民俗博物館(獅子蝶蒔絵毛抜形太刀拵)
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2010年12月31日UP 2013年 2月25日更新 |
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