山本家 隅立七ツ割四目結紋  山本 光利 (やまもと みつとし)1839〜1908

 家系:
山本利兵衛家は、本姓が柴田で、その祖は、佐々木道誉の支族で丹波国南郷を領した 岩山民部少輔道賢の世臣、柴田次郎兵衛光続でした。 しかし将軍足利義昭に従って織田信長との合戦で岩山、柴田主従は共に討死にしてしまいました。 柴田光続の子はまだ幼少で、 家臣某が奉じて養育して丹波国桑田郡山本村に帰農したのがはじまりです。 その7代の孫が漆工、山本利兵衛家の初代、山本武続で、以後代々利兵衛を通称としました。

 漆工、山本利兵衛家の初代、利兵衛武続は、貞享3年(1686)に生まれ、 宝永4年(1707)に京都に出て豊田重右衛門に蒔絵を、 中村宗哲に塗りを学び、正徳4年(1714)、室町今出川南入町に開業し、 姓を出身地の村名に因んで山本に改め、屋号を吉文字屋とし、 たちまち都下にその名を知られました。
 享保18年(1733)には御所の御用で「須磨明石蒔絵重硯箱」を、 延享3年(1746)には桃園天皇即位の調度を調進し、明和元年(1764)に没しました。

 2代光固は寛保3年(1743)に生まれ、幼名周三、のちに通称の利兵衛を襲名しました。 明和8年に後桃園天皇即位の調度、安永9年(1780)に臨時御用品に蒔絵をし、 寛政3年(1791)に没しました。

 3代光春は安永元年(1772)に生まれ、幼名が利三郎、相続後は利兵衛を称し、 別号を嶺月としました。吉田元陳に画を学び、御所の臨時御用で「梅図屏風」を納め、 氏神である上御霊神社拝殿に「三十六歌仙額」を奉納しました。文化14年(1817)、仁孝天皇即位の調度に蒔絵をし、禁裏蒔絵常職となり、 利兵衛家第一の名工とされています。光格上皇御用で「吉野山蒔絵提重」、 島津家より進献の「雪中鷹蒔絵料紙硯箱」を製作し、天保9年(1838)に没しました。

 4代武光は文化12年(1815)に生まれ、幼名が甚三郎。 23歳で利兵衛を襲名しましたが、若年での相続により 長野横笛を後見としました。 弘化4年(1847)に孝明天皇即位の道具に蒔絵し、 安政元年(1854)に禁裏蒔絵常職となりました。 安政年間、御所炎上により、島津家より進献の屏風箪笥を 青山貫洪・浅野友七・木下徳兵衛・永田習水・藤井満喬らと合作しました。 また皇女和宮の降嫁に際して、五葉菊紋を考案して採用されましたが、 病身により隠居して子の光利に任せ、明治3年(1870)に没しました。

山本利兵衛光利 肖像写真  略歴:
 山本光利は、天保10年(1839)3月、山本利兵衛家の4代目、武光の子として生まれました。 幼名が房次郎で、のちに代々の通称、利兵衛を襲名しました。 諱は光利で、晩年に心月と号しました。
 16歳から御所の御用を勤め、19歳で病身の父に代わって和宮降嫁御用を勤めました。 この時、父の武光は五葉菊紋を考案して採用されましたが、実際の仕事は病気を理由に 光利に委ねたのでした。
 また孝明天皇の御用品として「四季花鳥蒔絵螺鈿太刀拵」(東京国立博物館蔵)を製作しました。 これは14代将軍徳川家茂の進献品であった備州長船秀光の太刀に、 孝明天皇が新たに拵の製作を命じたもので、 総金具は後藤一乗作、鞘は狩野永岳下絵で、蒔絵・螺鈿が光利の作です。 さらに吉則の太刀に新調の「菊紋唐草蒔絵毛抜形太刀拵」(東京国立博物館蔵)に蒔絵し、 吉光の短刀拵には塩川文麟下絵で「子の日蒔絵」をしました。
 さらに中島華陽下絵で「老松鷹蒔絵文台・硯箱」を製作し、 原在照下絵で「鷹狩蒔絵文台・硯箱」、土佐光文下絵で「芦鶴蒔絵小机」、 円山応立下絵で「夏川景蒔絵硯箱」を製作しました。 また孝明天皇より徳川将軍家に贈った「大堰川三舟蒔絵料紙硯箱」を原在照下絵で製作しました。 その他、孝明天皇の注文で印籠を作ったり、 諸大名が孝明天皇に献上した多くの印籠を製作しました。
 明治元年(1868)には、明治天皇の即位に際し、岡村雪蓬下絵で「若竹鶴蒔絵料紙硯箱」、 原在照下絵で「催馬楽席田蒔絵硯箱」、その他に御紋章蒔絵の調度類を調進し、 皇后宮入内御用品として、梨子地御紋章蒔絵の手元調度数十品、 黒塗御紋章蒔絵の手元調度数十品を調進しました。
 明治以降、中級以下の蒔絵師達は粗悪品を作って比較的繁盛していましたが、 上等品は需要がなくなり、山本光利は古物の修理などで、なんとか糊口をしのぎました。 その後、国内外の博覧会や共進会が盛んになり、出品するようになりました。 明治30年(1897)、京都奨美会より献上の「遠山草花蒔絵書棚」、 「逢坂山蒔絵料紙箱・硯箱」を富田幸七と共に製作しています。 また蒔絵製作に関して多くの証言を残しています。 明治41年(1908)4月9日に没し、代々の葬地、東山真如堂に葬られ「惇誉明道心月居士」と 諡されました。

 住居:
初代山本武続以来、代々、京都室町今出川南入町に住みました。

 逸話:
11歳から、父から蒔絵を学びました。寺子屋から3時ぐらいに帰って稽古していました。 その後病気になって、一時やめ、14歳から本格的に始めました。 しかし父は短期で一度しか教えてくれません。 そのうちに手板に絵を描くだけでは飽きたらず、 何か変わったことをしたくなりました。 そこで当時、印籠の下地を作る者がなかったため、 自分で作ろうと思い、古い印籠を解体して製作方法を解明しました。 そして両親が夏に昼寝をしている時間を使って密かに製作し、 とうとう1つの印籠を完成させてしまったそうです。 両親はただ笑っていたそうです。
 通常、皇室や大名の御用品には銘を入れることが許されませんでした。 しかし印籠だけは許されていました。後年、 それについて光利は「印籠だけは、お上へあがるものでも、銘をきりました。 これは表向から差上るのではなく、御局口の方から、 小間物屋が伺がひますので厶います」 と証言しています。光利在銘の印籠は、世界的に見ても10点ほどしか確認されていませんが、 ほとんどは孝明天皇御用品と考えられます。中でも宮内庁三の丸尚蔵館所蔵の「虎蒔絵印籠」 は、孝明天皇の遺品として皇女和宮に譲られた印籠で、基準作品となります。 
 16歳から父に代わって御所の仕事をした光利は、非常に苦労して仕上げました。 そうしたことを一、二度繰り返すうちに、おびえないで仕事をできるようになりました。 明治天皇の即位の道具を作る際にも夜中の0時、1時まで仕事をして何とか仕上げたそうです。

 孝明天皇:
 孝明天皇(1831〜1867)は第121代天皇で、内憂外患の幕末の混乱期に在位されました。 一方で孝明天皇は大変に印籠を好まれたという意外な一面をお持ちでした。 万延・文久の頃、ある大名が献上した印籠がお気に召し、印籠を 集めはじめられました。
 当時の京都では武家人口が少なく、印籠はすっかり廃れていました。 そのため初めは江戸出来の金地小判形の印籠を好まれましたが、 孝明天皇のご趣味により、京都の蒔絵師も様々な印籠を手がけるようになり、 光格天皇・仁孝天皇の頃の活況となりました。 山本光利のほかにも中大路茂永・戸島光正・永田習水などが印籠蒔絵師として作品を納めました。 孝明天皇は四曲の屏風状の印籠掛に数十個の印籠を掛けて叡覧あられたと伝えられます。
 現在、宮内庁三の丸尚蔵館には、孝明天皇の遺品として皇女和宮に譲られた印籠として、山本光利作 「虎蒔絵印籠」など京都の印籠蒔絵師の印籠や、光柳・光斎などの江戸の印籠が所蔵されています。 御所


















 作品を所蔵する国内の美術館・博物館:

・宮内庁三の丸尚蔵館(虎蒔絵印籠)
・東京国立博物館( 四季花鳥蒔絵螺鈿太刀拵菊紋唐草蒔絵毛抜形太刀拵桜楓小禽蒔絵螺鈿印籠
・大阪市立美術館(菊蒔絵棗)

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2011年 1月 1日UP