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  •  幸阿弥家 (こうあみけ)
    幸阿弥家桔梗紋

     流派: 幸阿弥派

     家系:
    幸阿弥家の初代・土岐四郎左衛門入道道長は、美濃の名族・土岐美濃守持益の次男とされています。 土岐道長は足利将軍家の8代義政に近侍し、 同朋衆の一人として蒔絵の技を以って仕え、「幸阿弥」の称を賜り苗字としました。 以後、足利将軍家・織田家・豊臣家・徳川将軍家に仕えました。
     初音調度(国宝・徳川美術館蔵)など代々徳川将軍家の調度製作を指揮し、 御蒔絵師として江戸時代を通して漆工界の最高位に位置しました。

     各代略歴:
    ・初代 土岐 道長 1410〜1478
    土岐四郎左衛門入道道長は、応永17年(1410)に 美濃の名族・土岐美濃守持益次男として生まれました。 近江国栗本郡を領し、京都に住んで、足利将軍家の8代義政に同朋衆の1人として近侍しました。 蒔絵の細工に長じ、将軍義政から「幸阿弥」の称を賜っています。 文明10年(1478)に没しました。

    ・2代 幸阿弥 長清 1433〜1500
    永享5年(1433)に土岐道長の長男に生まれ、藤左衛門を通称としました。 寛正6年(1465)、足利8代将軍・義政の命により、 後土御門天皇即位の調度 に蒔絵をしました。 また蒔絵鼓胴を献じたと伝えられ、後に法橋に叙せられています。 明応9年(1500)に没しました。

    ・3代 幸阿弥 宗金  1457〜1527
    長禄元年(1457)、幸阿弥2代道清の子に生まれました。 明応年間、足利11代将軍・義澄の命を受け、 後柏原天皇即位式用の調度に蒔絵をしました。 後、法橋に叙せられています。大永7年(1527)に没しました。

    ・4代 幸阿弥宗正  1479〜1554
    文明11年(1479)に幸阿弥3代・宗金の長男に生まれました。 天文23年(1554)に没しました。

    「桜山鵲蒔絵硯箱」 ・5代 幸阿弥 宗伯 1484〜1557
    文明16年(1484)、幸阿弥3代・宗金の次男に生まれました。 享禄5年(1532)、管領細川高国の命により、 後奈良天皇即位式の調度品に蒔絵をしました。 重要文化財「桜山鵲蒔絵硯箱」(東京国立博物館寄託、個人蔵)の作者とされています。 (写真は「秋元子爵家御蔵品入札」東京美術倶楽部、1931年)。 法橋に叙せられ、弘治3年(1557)に没しました。

    ・6代 幸阿弥 長清 1529〜1603
    享禄2年(1529)、幸阿弥5代宗伯の長男に生まれました。 それまで所領が定まらなかったものを、織田信長より500石の知行地を賜りました。 永禄3年(1560)、足利13代将軍・義輝の命により、 正親町天皇即位の調度に蒔絵をしました。
     天正11年(1583)には宮中の調度品に蒔絵をし、 豊臣秀吉から「天下一」の称号を受け、法橋にも序せられています。 慶長8年(1603)に没しました。

    ・7代 幸阿弥 長晏 1569〜1610
    6代長清の長男で、永禄12年(1569)に生まれました。 15歳の時、父幸阿弥長清に伴われ、 豊臣秀吉の御前で梅に鶯の下絵を描き、後に香盆に仕立てて献上し、 「上手」と賞されています。秀吉の上意により、堀秀政が烏帽子親となって久次郎と命名され、 景光の刀を賜りました。
     天正14年(1586)、豊臣秀吉の命により、後陽成天皇の即位道具を制作しました。
     慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦の際、徳川家康の陣に伺候して十人扶持を賜り、 またこの時より幕末まで、自判のみでの支払請求を許されました。後に法橋に叙せられています。
     慶長15年(1610)、徳川秀忠が吟味し、 酒井忠世の老中奉書をもって200石を賜るべく、 京都より下向のところ、遠江国見付宿で落馬して没しました。

    ・8代 幸阿弥 長善 1589〜1613
    天正17年(1589)に7代長晏の惣領として生まれ、 通称を藤十郎とし、後に四郎左衛門としました。 慶長16年(1611)、23歳で跡職仰せ付けられ、継目の御礼をしました。 後水尾天皇即位の道具を制作しましたが、 慶長18年(1613)に25歳の時に頓死しました。

    ・9代 幸阿弥 長法 ?〜1618
    幸阿弥家7代長晏の次男です。慶長18年(1613)、兄の急逝により跡職を仰せ付けられ、 東福門院入内の道具、千姫の婚礼道具の調進を命じられましたが、 元和4年(1618)、にわかに遁世し、同年没しました。

    ・10代 幸阿弥 長重 1599〜1651
    慶長4年(1599)、7代幸阿弥長晏 の3男に生まれ、 新次郎と称しました。元和4年(1618)長法の急な遁世により、 他家に養子に行っていたところを呼び戻されて家を継ぎました。 この時、長晏の後家、長栄は京都から江戸に上り、 酒井忠世、土井利勝、春日局に嘆願して 相続が認められました。幕府 御細工頭 矢部掃部が烏帽子親となって元服し、仁王三原の刀を賜りました。
     元和6年(1620)に東福門院入内の御道具、 寛永7年(1630)には徳川秀忠の命により、明正天皇即位の道具を制作しました。 家光の命により、狩野守信下絵で唐松蔦蒔絵掛硯箱を制作し、思召にかなって、 さらに掛硯、十種香箱、香盆の制作を命じられ、上手の号を賜りました。
     さらに加賀藩主・前田光高に嫁ぐ大姫の「菊白露蒔絵婚礼道具」など、数々の婚礼調度 を制作しました。なかでも寛永16年(1639)に3代将軍家光の長女千代姫が 尾張徳川家2代の光友に嫁いだ際に調えられた国宝 「初音調度」 (徳川美術館蔵)は大名婚礼調度の最高傑作として知られています。 慶安4年(1651)に京都で病死しました。

     作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
    ・徳川美術館(国宝 初音調度、菊白露蒔絵調度)

    ・11代 幸阿弥 長房 1628〜1683
    寛永5年(1628)、10代・幸阿弥長重の子に生まれ、通称が與兵衛、諱が長房です。
     正保3年(1646)、19歳の時に初めて御目見しました。 御細工頭矢部七左衛門が老中・若年寄へ召し連れました。 この後、父・長重とともに京都に上り、御用を勤める内に父長重が病死したため、 扶持を相続しています。
    寛文10年(1670)、48歳で入道し、長安と号しました。 延宝8年(1680)には、東叡山の厳有院殿仏殿・宮殿に蒔絵をし、御代替の際に御扇子を献上しました。 天和3年(1683)に山田常嘉 とともに将軍家のために御印籠・香箱を製作しましたが、 同年に病死しました。

    ・12代 幸阿弥 長救 1661〜1723
    寛文元年(1661)、11代・幸阿弥長房の子に生まれ、通称を與惣次郎とし、後に與兵衛としました。 諱ははじめ長好で、後に長道、さらに長救と改めました。 国名の伊予を称することをゆるされています。
    延宝8年(1680)、御代替の際に父・長房とともに御扇子を献上しました。  貞享元年(1684)鶴姫の香棚を製作しました。 元禄2年(1689)日光東照宮修復御用に際しては、馬一疋と朱印を賜っています。 また護持院の額、柳沢家の調度を製作しました。 元禄3年(1690)、御代替の節、御扇子献上をし、 同12年(1699)には円阿弥又五郎とともに塗師蒔絵師肝煎に任じらています。
     正徳3年(1713)に 重要文化財「桜山鵲蒔絵硯箱」(個人蔵)を幸阿弥5代宗伯作と極め、折紙を付けました。
     享保3年(1718)、8代将軍・徳川吉宗の命により、「梅ヶ枝御硯箱」を模作して、 黄金一枚を拝領しました。また享保8年(1723)には「葵紋蒔絵鞍鐙」を制作して行賞されています。 同年に没しました。

    ・13代 幸阿弥 正峯 ?〜?
    12代・幸阿弥伊予長救の弟で、通称が四郎左衛門で諱が正峯、 国名は因幡を称することを許されています。
     享保8年(1723)に兄の跡を継いだとみられます。寛保4年(1743)に 重要文化財「桜山鵲蒔絵硯箱」(個人蔵)を幸阿弥5代宗伯作と極め、折紙を付けました。 生没年は未詳ですが、その直後に当主が14代長孝となるので、寛保末から延享初めに没したと考えられます。 「群蝶蒔絵印籠」のみが現存しています。

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    ・14代 幸阿弥 長孝 ?〜?
    装剣奇賞 13代・幸阿弥因幡正峯の子で、諱が長孝または長好です。国名の因幡を称することを許されています。 梅良軒あるいは業計とも号しました。生没年は未詳です。
     延享4年(1747)、9代将軍・徳川家重の将軍就任祝賀 のために来日した、第10回朝鮮使節への返礼品の内、鞍鐙6組・大卓2基・料紙硯箱を製作しました。
     一方で長孝は印籠の名工でもありました。天明元年(1781)に刊行された『装剣奇賞』印籠工名譜では 「幸阿弥因幡/同(江戸)皆川町住/是亦上手なり其作(円阿弥)丹後に等し」と書かれています。 また前平戸藩主松浦静山は『甲子夜話』の中で、「幸阿弥因幡は御召御印籠師、尤も御蒔絵師なり」と述べています。 「御召御印籠師」とは、将軍家が身につける印籠を作る将軍家御用の印籠師という意味です。
    幸阿弥長孝作「小原木蒔絵盃」  「格子桐蒔絵印籠」(高円宮家蔵)や狩野典信下絵「鯉鮎蒔絵印籠」、板谷廣當下絵「丸龍蒔絵印籠」 古満休伯(5代)との合作による「千鳥蒔絵印籠」、「薬玉蒔絵篳篥箱」等が現存しています。
     また東福門院の頃に、先祖の幸阿弥長重あるいは長房が製作を命じられたとされる 「小原木蒔絵盃」を再現して徳川将軍家に献じたものも現存しています。

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    ・15代 幸阿弥 長周 ?〜?
    14代・幸阿弥因幡長孝の子で、国名の因幡を称することを許されています。諱が長周または長因です。生没年は未詳です。
     寛政12年作の「鼓鶏蒔絵印籠」、享和2年作の「貝桶蒔絵印籠」、「秋草蒔絵笛筒」(春日大社国宝殿)、 「竹林七賢人蒔絵印籠」(メトロポリタン美術館蔵)、波千鳥蒔絵堆朱印籠(ベネチア東洋美術館蔵) 、「杜若蒔絵印籠」(クレス・コレクション)、「翁千歳三番叟蒔絵三組盃」(個人蔵)などが現存しています。

     作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
    ・春日大社国宝殿(秋草蒔絵笛筒)


    ・16代 幸阿弥 長輝 ?〜?
    15代・幸阿弥因幡長周の子で、国名称呼は因幡を許されています。諱が長輝です。生没年は未詳です。 在銘作品としては、 「石山寺蒔絵印籠」と「秋草鶉蒔絵印籠」(ベネチア東洋美術館蔵)の 2点だけが確認されていましたが、2024年に狩野栄信下絵の「月梅蒔絵桐茶箱」が新たに出現しています。

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    ・17代 幸阿弥 長行 ?〜?
    16代幸阿弥長輝の子で、国名が因幡です。生没年は未詳です。
    文政10年(1827)、御昇進の御位階御用につき御進献御太刀箱に蒔絵をし、 御褒美銀子を頂戴しました。

    ・18代 幸阿弥 長賢 ?〜?
    17代幸阿弥長行の弟です。通称が吉之丞、諱が長賢です。国名称呼として因幡を称し、 万延元年(1860)に山城に改めました。生没年は未詳です。
     弘化元年(1844)、焼失した本丸御殿再建により新規御道具を製作しました。 万延元年(1860)、再度焼失した本丸御殿の再建に伴い、倅の久之丞と新調御道具を製作しました。 文久元年(1861)和宮御入城の御車を修復しました。

    ・19代 幸阿弥 長福 ?〜?
    18代・幸阿弥長賢の子で、生没年は未詳ですが、通称が久之丞、諱が長福です。 後に国名・伊勢の称呼を許されています。 柴田是真に蒔絵を習いました。江戸の町名主で『江戸名所図会』の著者・斎藤月岑の娘と結婚しましたが、のちに離縁しました。
     万延元年(1860)、焼失した本丸御殿の再建に伴い、父の幸阿弥因幡長賢と新調御道具を製作しまています。 慶應2年(1866)に御目見して御扇子を献上し、 同3年(1867)にが進献御太刀箱蒔絵御用を勤め御褒美銀子を頂戴しました。
     明治3年(1870)に徳川宗家に従って静岡へ移住しました。 後に東京に戻りましたが、零落して居所さえ明かさなかったといわれています。

     格式:
     江戸時代の幸阿弥家は、御細工頭支配で、代々の身分は、ほとんど武士に准じるものでした。 正月朔日には将軍に御目見もします。部屋住の時に前髪付での御目見を許されています。
     柳営内で、熨斗目(のしめ)、白帷子(しろかたびら)の着用を許されていました。 これは御用達職人の中でもごく少なく、格が高い証です。また遠方の御用の際には伝馬証文を下されました。 そして特に御用達の工商人の中でも別格だったことが3つあります。
     1つ目は、金座の後藤家と幸阿弥家だけ(慶安期に茶屋家が加えられたこともある)が、 急用の際に大奥の台所まで入ることができたことです。
     2つ目は支払い請求を御細工頭の裏判なしで、自判のみでできたことです。 これは御細工所御用達の中でも、幸阿弥家と秤座の守随家のみです。
     3つ目は50歳以下の時は月切り駕籠を許され、50歳以上では定駕籠を許されていたことです。 これは絵師、金座の後藤、本阿弥、呉服師、大久保主水、細井藤十郎に限られていました。

     また重要な御用品を私宅で命じられている時は、昼には葵御紋の幟を立て、 夜は葵御紋の提灯を掲げ、近くで火災が発生した際は、火消役に守るよう通達が出ました。 火災時の持出しのための駆付け人足の申請を幕府にしたこともありますが却下され、 代わりに御用提灯を貸与されています。

     禄高は二百石十人扶持でしたが、 3代将軍家光の時代に百石減知されたのを不服として、 百石をも辞して、十人扶持のみを受けたといわれています。 ただしこの話は家伝資料に出ているわけではなく、 10代幸阿弥長重相続の際の誤伝かもしれません。

     一門:
    幸阿弥家には江戸初期までに分家した栗本家が2家あります。 その他にも経歴不明ですが、幸阿弥忠光、幸阿弥新三郎といった在銘の作品が現存しています。 これらは門人であったと考えられます。

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     武鑑:
    武鑑は大名・旗本・幕府役人の氏名・禄高・系図・家紋・屋敷所在地・ 重臣の氏名といった情報を記し、 民間の書肆が営利目的に刊行していた本です。 実はこの武鑑には御用達町人も掲載されています。 宝暦12年(1762)刊行の「宝暦武鑑」を例に見てみましょう。「▲御蒔絵師并塗師」 のところを見れば、その筆頭に「十人ふち/皆川丁二丁め/□幸阿弥因幡」とあります。 □印は御細工所御用を表わしています。











     住所: 幸阿弥因幡屋敷
    12代・幸阿弥伊予長救の頃までは、霊巖島・馬喰町1丁目・南大工町と転居しました。 その後、神田皆川町2丁目に御蒔絵師の幸阿弥、奈良、菱田、榎本、鈴木が揃って139坪(鈴木は130坪)の拝領屋敷を得ました。
     幕末の文久2年(1862)には、神田佐柄町の御弓張奉行・山本庄右衛門の屋敷内に住んでおり、嘉永の地図では名入りで確認できます。 水色で囲んだ所に「幸阿弥因幡」と書かれています。地図に名前が出ている唯一の蒔絵師です。
     下の絵は『江戸名所図会』の「筋違八ツ小路」の図で、 地図で言えば左下の筋違御門から、上の八ツ小路を望んでいます。 左上の雲の上あたりが幸阿弥因幡の屋敷になります。
    幸阿弥因幡屋敷 











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    2006年 2月 3日UP
    2024年10月 1日更新