池田 泰真(いけだ たいしん) 1825〜1903
流派: 古満派・石切河岸派・薬研堀派
略歴:
幕末・明治の江戸の印籠蒔絵師で、柴田是真の高弟です。
文政8年(1825)、江戸赤坂に西尾藩士池田新五郎の五子として生まれ、
幼名を七五郎、後に久三郎を称しました。
子供の頃から絵を描くことを好んだため、両親は11歳の時に柴田是真の門に入れました。
後に漢学者の長井旌峨は是真の偏諱により、名を和、字を泰真、号を元斎と命名しました。
作銘には、初め泉哉、後に泰真を使いました。
25年間、是真の内弟子として、画と蒔絵を住み込みで学び、
是真の墨形塗・青海波塗・青銅塗・砂張塗の開発にも大いに尽力しました。
安政6年(1859)に浅草榊町に独立し、嚢物商「丸利」、後に「宮川」、「坂倉」等の注文で、
印籠・煙管筒などを製作しました。
明治6年(1873)のウィーン万国博覧会をはじめ、内外の展覧会に出品しています。
門人の育成にも尽力し、その一派は住所から「薬研堀派」と呼ばれています。
明治23年に東京美術学校に漆工科ができる時、教授になることを打診されましたが、自分は一介の蒔絵師で人に教える力はない、と辞退したため、
小川松民が教授となりました。
明治29年(1896)には帝室技芸員に任命されています。
明治36年(1903)3月7日に没し、
今戸の称福寺にある是真の墓の傍らに葬られ「浄諦院釈泰真居士」と諡されました。
門人:
池田(紫村)慶真・池田(平山)泉哉・柴田真哉・梅澤隆真・都築幸哉・矢田雪真・
高井泰令・福島泰哉・田辺照成・市川泰山
風貌:
背丈が高く、江戸人らしい長顔で、物静かな見るからに名匠にふさわしい風格をそなえていた、といわれています。
住居:
11歳から浅草上平右衛門町の是真宅に住み込みで修業しました。
35歳で独立して近所の浅草榊町、第六天の境内に独立しています。
明治7年に両国米沢町1丁目に転居しましたが、
明治14年に類焼して、日本橋薬研堀町14番地に転居し、以後そこに住み続けました。
逸話:
是真の元で11歳から25年間、内弟子を勤めました。
内弟子ですから、若い頃は是真の家の雑用まで行い、
是真の母はその実直さが気に入り、銭湯の供にまで連れて行かれたそうです。
是真からは画と蒔絵を学びましたが、画で身を立てることの困難を悟り、後には蒔絵のみに専念しました。
仕事に対してはきわめて真面目で、晩年に至るまで、毎日朝早くから夜遅くまで蒔絵に従事しました。
画人としての立身は断念しましたが、
画の素養は深く、下絵から塗・蒔絵まで余人の手を借りなかったと伝えられています。
物事に鷹揚で、弟子に自由に金粉を扱わせ、また預けておいたそうです。
唯一の娯楽は歴史物の書物でした。しかし読む時間を惜しんで、
仕事をしながら傍らで妻や娘に読ませ、それを聞いて楽しみました。
妻が睡魔に襲われて、言葉が不明瞭になると、大声で起こして読み直させたそうです。
作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
・皇居三の丸尚蔵館(山路菊料紙箱硯箱・山路菊蒔絵文台)
・東京国立博物館(江之島蒔絵額面・秋田蒔絵小箱・
蒔絵手板・鶴蒔絵根付)
・京都国立近代美術館(青海波千鳥稲舟蒔絵料紙硯箱・豆蒔絵手箱)
・国立工芸館(網代鶴蒔絵衣桁掛屏風)
・東京藝術大学美術館(秋草漆絵煙管筒)
・泉屋博古館東京分館(野菜盛籠蒔絵額面)
・たばこと塩の博物館(牡丹蒔絵煙管筒)
・佐野美術館(
扇蒔絵印籠・
忍草蒔絵櫛笄)
・掛川市二の丸美術館(梅蒔絵煙管筒・秋草蒔絵煙管筒・枇杷蒔絵煙管筒)
・石川県立美術館(桜棚蒔絵額)
・石川県輪島漆芸美術館(草花蝶蒔絵重箱)
・清水三年坂美術館(雀宿蒔絵硯箱・春草蒔絵棚・紅葉蒔絵板文庫・秋草蒔絵盆・葡萄蒔絵菓子器・羊歯蒔絵重箱・葡萄蒔絵箱・
藪柑子蒔絵煙管筒・豌豆蒔絵煙管筒・秋草蒔絵煙管筒)
・沢ノ井櫛かんざし美術館(菊蒔絵櫛笄)
・大阪市立美術館(宝尽蒔絵煙草入・粟蒔絵煙管筒)
・林原美術館(節分蒔絵印籠)
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2006年 1月 1日UP 2024年 4月20日更新 |
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