昇龍斎 光玉(しょうりゅうさい こうぎょく) 生没年未詳
流派: 羊遊斎派
略歴:
江戸後期から明治初年に江戸で活躍した印籠蒔絵師です。
通称が金次郎で、昇龍斎・一抱斎・光玉などと号しました。
独身者で、晩年は東海居、明堂居士とも号しました。
特に原羊遊斎
の工房の職頭であったことと、起立工商会社の工人として、
現在までその名が伝えられています。
苗字すらない一職工で、作品のほとんどは雇い主の名前として世にでました。
しかし幕末の蒔絵界に多大な影響を与えた蒔絵師でした。
はじめ廣三という印籠蒔絵師に就きましたが、よく出来た印籠を見せに行ったところ、
「こんな駄らしのないものが何になる」と庭の敷石に叩きつけて壊されました。そこで発奮して、
師を見返すほどの名工になろうと神に願をかけて修業しました。そのために耳が遠くなり、
蒔絵師の間では「つんぼの金次郎」・「ツン金」と呼ばれていました。
その後、原羊遊斎
の工房に入って腕を上げ、職頭的存在になりました。
原羊遊斎没後も、直接教え込んだ岩崎交玉
と2人で義理堅く工房に残り、
4歳の養子・原更山を支えました。
羊遊斎の工房が閉鎖された後は、幕府の蒔絵仕手頭・田邊源助宅に寄寓し、
幕府御小屋
での作業に従事しています。
田邊家は幕府の工人ですが、3代源助の兄、田邊平治郎が原羊遊斎の門に入っていた関係で、
羊遊斎派の蒔絵を特色としていました。
そのため、昇龍斎光玉は田邊家に迎え入れられたのでしょう。
この田邉家において後進の育成にもあたったため、当時神田で育った蒔絵師で、
「ツン金と重傑(梶山明細)の息のかからぬ者はない」とさえいわれ、
仕事は梶山明細(1825〜1899)の先輩格でした。
維新後は起立工商会社に入り、岩崎交玉の指揮下で働きましたが、
明治十年代に岩崎交玉宅で没しました。
門人: 梶山明細・岩崎交玉
住居:
羊遊斎の工房にいた頃、どこに住んでいたかは不明です。
その後、神田皆川町の幕府の蒔絵仕手頭田邉源助宅に寄寓し、
維新後は岩崎交玉の住居、神田千代田町4番地に住みました。
作品を所蔵する国内の美術館・博物館等:
・国立劇場伝統芸能情報館(蓑亀蒔絵櫛・笄)
・静嘉堂文庫美術館(薮柑子鶏蒔絵印籠)
・出光美術館(若松蒔絵笄)
・澤の井櫛かんざし美術館(萩蒔絵櫛)
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