柴田 是真(しばた ぜしん) 1807〜1891
流派: 古満派・石切河岸派
略歴:
文化4年、江戸の両国橘町に、宮彫師柴田市五郎の子として生まれました。
幼名は亀太郎で、後に通称を順蔵としました。
11歳で古満寛哉(初代)に入門、16歳で鈴木南嶺に画を学んで、
名を是真とし、令哉と号しています。
また京都に上って岡本豊彦にも画を習い、頼山陽・香川景樹とも親交を持ちました。
京都から帰り、神田川をはさんで柳原の対岸、
浅草上平右衛門町に居を移し、以後、對柳居とも号しています。
青海勘七以来絶えていた青海波塗を復興し、
青銅塗・四分一塗・鉄錆塗・砂張塗・紫檀塗・墨形塗を発明し、
画人として、次いで漆工として名をなしました。また漆絵を好んで描いています。
明治6年のウィーン万国博覧会に「富士田子浦蒔絵額面」を出品して進歩賞牌を受賞したのをはじめ、
国内外の博覧会・展覧会で多く受賞しました。
明治23年、帝室技芸員に補せられています。池田泰真をはじめ多くの門人を育成し、
是真の住所から石切河岸派と呼ばれました。
明治24年7月13日に没し、今戸の称福寺に葬られ、「弘道院釈是真居士」と諡されました。
門人:
・実子:柴田令哉・柴田真哉・梅沢隆真
・蒔絵:池田泰真・松野應真・榎本筑後・
幸阿弥伊勢・
梶川鉦太郎・栗本信濃・奈良土佐・庄司竹真
・絵画:鈴木弘真・築山清真・福島柳圃・高橋翠岳・吉村嶋女・田中如真・大西椿平
・庄司竹真・池田(綾岡)有真・井草仙真(二代歌川国芳)・森本君所・山形素真・
朝日鉱哉・古川松根・伊東春洋
風貌:
是真の母が常々「画家は品位を落としてはならない」と諭していたため、身なりを正しくしていました。
家に居る時は、秩父銘仙の着物に、黒斜子の羽織を、外出の時には冬は黒羽二重の紋付に同羽織、
夏は黒紬の単衣に紺縮の紋付、帯は萌黄色の献上博多を締め、縞ものを着るようなことはありませんでした。
上の写真でもやはり紋付の小袖・羽織で羽織紐も同裂で地味なものです。是真は頑固で、維新後も洋風になじみませんでした。革靴やハンカチは用いず、写真嫌いでしたから、
上の82歳の写真はたぶん唯一のものでしょう。石川光明が彫った木像も
この写真を元にしているようです。周囲が髷を切って散髪しているのを見て、
流行には従わないと言って、明治11年に円頂にして以来ずっと坊主頭でした。
額が広く、鼻が高く、白眉は鼻に達していたそうです。
晩年の姿は、画家の鏑木清方が、その祖母(近所の第六天の社司の嫁だった)から聞いています。
雪駄履きで、踵が隠れるほどの着流しに、黒縮緬の紋付を裾長にぞろりと着て、声高に話したそうです。
身長は5尺6寸(170cm)で、力士のような体格で胸毛が生えており、
似たような体格だったため、上洛した頃は円山応挙の再来のようだと言われました。
腕力があり、4斗俵(60kg)を持ち上げたそうです。
また昼食の後は弟子達を連れて家の裏(石切河岸)に行き、弟子達が持ち上げられない
大きな石を持ち上げてみせ、それを投げ落とすや家に駆け込み、
すぐに絵筆を取って絵を描いてみせましたが、少しも手先が震えなかったそうです。
住居:
是真は京都の遊学から帰って、浅草上平右衛門町11番地(現在の台東区浅草橋1丁目2番地)に転居し、
生涯そこに住み続けました。
拡大地図で中央にあるのが浅草御門と浅草橋で、橋を渡って左に行った川沿いの、黄緑で囲ったところが是真宅です。
現在のJR浅草橋駅の南側です。
横に流れる川が神田川で、右の大川(隅田川)に流れ込みます。
右下にあるのが両国橋です。
是真宅の対岸は「柳原の土手」で、柳の木が植わっていました。 是真宅の裏は石切河岸と呼ばれており、
是真は「石切河岸の先生」と呼ばれていたのです。中央に第六天と書かれた赤い囲いがあります。
高弟の池田泰真は独立後、この第六天の境内に住みました。是真宅から歩いて3分とはかかりません。
是真の家は2階建で、2階の川に面した6畳が細工場です。
是真はずっとその古い家に住んでいましたので、
大破しかけてほとんど新材を使って修繕したことがあります。
その時、2階の欄干だけは変えさせませんでした。その欄干は是真の母が毎日、
朝夕雑巾で拭いていたので、残したかったのだそうです。
逸話:
明治以降、現代まで、是真の作品は国内外の愛好家にとって垂涎の的となりました。
しかし印籠や文房具・茶道具のような入念な作品は別として、
是真の作品は、下町に多く分布した中流階級の是真愛好者にも広く行き渡っていたのです。
鏑木清方も子供の頃に提げていた守袋に付けた小さな箱根付は是真の作でした。
そうした趣味の良い暮らしをするために、当時は格別巨万の富を必要とはしなかった、とも言っています。
実に平和で良い時代ではありませんか。
木地師に下地を任せられる木地蒔絵などは、かなり多く作ったのです。
画人であり、しかも手際の良い名工でしたから、気軽に蒔絵しても立派な作品になったのです。
午前中は東向きの座敷で画を描き、午後は南向きの仕事場で蒔絵をしました。
それはほとんど毎日、生涯続いたのです。
ですから作品はたくさん残っています。自分の贋物がたくさん作られたり、
気軽に作った作品が是真の銘があるだけで、高額で取引されることなど、
きっと是真は決して望んでいなかったのではないでしょうか。
若い下積み時代の是真は随分苦労もしました。当時は古満寛哉の一門人で、
30代後半まで蒔絵師としては評価されていませんでした。十三歳の時に注文で三組盃を作っても
材料費を差し引くと僅かしか残らなかったそうです。
また精魂こめて作った印籠を1分2朱で売ろうと嚢物商に持ち込んでも買い手がつかず、
売らずに方々持ち歩いていたところ、浅草御門で師の寛哉にばったり出会い、
「どこに行くか?」と聞かれて何も答えられず、うなだれて帰ったとも伝えられます。
しかし同時に画を学び、画家として先に名を成し、作品にもそれが表れ、数々の技法を発明して、
蒔絵師としても次第に有名になっていったのです。
作品を所蔵する国内の美術館・博物館(漆工品のみ):
・皇居三の丸尚蔵館(温室盆栽蒔絵額)
・東京国立博物館(蓮鴨蒔絵額
・烏鷺蒔絵菓子器
・古墨形印籠
・桃蒔絵煙草入・菊蒔絵根付
・青海波塗宝舟蒔絵根付
文字漆絵櫛)
・京都国立博物館(青海波塗菓子器)
・京都国立近代美術館(鳴子蒔絵手箱・
宝舟蒔絵茶箱)
・東京藝術大学大学美術館(木葉蒔絵文箱)
・静嘉堂文庫美術館(柳流水蒔絵重箱・蓮蒔絵印籠・柴舟蒔絵印籠・古墨形印籠・小道具蒔絵印籠)
・サントリー美術館(五節句蒔絵手箱)
・三井記念美術館(樫実蟻蒔絵煙草入・稲菊蒔絵卵盃・青海波塗菓子器)
・泉屋博古館東京分館(軍鶏蒔絵文箱)
・根津美術館(蝶漆絵瓢盆・蔓瓢蒔絵引戸・鬼鍾馗蒔絵印籠・
端午黒歯売蒔絵印籠・釘蒔絵鍔・蜻蛉蒔絵鍔・小柄小刀蒔絵小柄)
・板橋区立美術館(梅大花瓶蒔絵袋戸・果蔬蒔絵額)
・たばこと塩の博物館(武蔵野蒔絵煙草盆)
・ 佐野美術館(沢瀉蒔絵印籠)
・北方文化博物館(扇面蒔絵書棚)
・ 石川県立美術館(蕗小鳥蒔絵額)
・清水三年坂美術館(青海波塗棗・青海波柳蒔絵菓子重・木目蒔絵残菜入・木葉蜘蛛蒔絵菓子器・
菊蒔絵印籠・葛蟷螂蒔絵根付・蝶蒔絵印籠・秋草包丁蒔絵煙管筒・菊小柄蒔絵煙管筒・蒲公英蒔絵煙管筒)
・大阪市立美術館(五節句蒔絵手箱・波千鳥蒔絵茶箱・桜銅鑼蒔絵印籠・青海波印籠・梅厚司蒔絵印籠)
・藤田美術館(青海波塗筆筒)
・逸翁美術館(墨形香箱)
・大和文華館(墨形根付)
・ 鍋島報效会徴古館(蕗茗荷蒔絵琴柱箱)
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柴田是真生誕二百年展⇒
2005年11月22日UP 2024年 4月20日更新 |
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