長谷川 光祗(はせがわ こうし) 1825〜1883
流派: 古満派
略歴:
長谷川光祗は、文政8年(1825)正月、
江戸桜田伏見町に長谷川太兵衛の長男に生まれ、松次郎と名付けられました。
父の長谷川太兵衛は松屋という質商の4代目でした。
太兵衛はほどなく居宅を木挽町三丁目に移したので、光祗もそこで育ちました。
温厚な性格で、また孝行な子で、長じて松兵衛を通称としました。
13歳の時、自ら蒔絵師となることを望み、
関陸遊斎に入門して通弟子となりました。
当時、住込みの内弟子ではなく、通弟子となることができたのは、
裕福な家の子だけでした。
しかし関陸遊斎は、紋章唐草蒔絵を専門とする道具蒔絵師であり、
その技術にすぐに飽き足らなくなりました。
そこで1年で陸遊斎の許を辞して、
さらに古満派の印籠蒔絵師・石井有得斎に入門して6年間修業し、様々な印籠蒔絵の技術を身に付けました。
また谷文晁門下で彦根藩御用絵師であった佐竹永海(1803〜1874)にも師事して絵画も学び、
「永立」の号も授かりました。
20歳の時に蒔絵の師である石井有得斎から「壽得斎」の号も授けられました。
そして師と共に徳川将軍家の御用品を4年間製作し、
24歳の時に独立開業しました。さらに安政4年(1857)、
ある大名家に士分で召抱えられ、家士に列して帯刀を許されました。
それを期に号を「永々子光祗」と改めました。
製作品の多くは印籠、刀鞘その他緻密な小道具で、
柴田是真と最も親しくしていました。
明治維新後は輸出品の巻煙草入や香箱、置物などを作りました。そして明治初年には、
明治天皇御料として宮内省より袋物商・丸屋利兵衛へ下命された桐木地雲鶴蒔絵の御手爐を手がけました。
明治16年(1883)12月2日に病死し、浅草北稲荷町の蓮城寺に葬られ、
「景遠院光祗日長」と諡されました。
家督は長男の長谷川宗永が継ぎました。宗永は蒔絵師として活躍し、
漆工界にも多大な貢献をしました。
門人:
長谷川宗永(長男)、小泉美喜之助、湯河原孝吉、
小田玉得斎勇山、赤塚光山、山本幸次郎、長谷川光立
住居:
江戸桜田伏見町に生まれ、木挽町3丁目に育ちました。
安政4年(1857)に某大名家に士分で召抱えられてからは、両国矢の倉に住み、
慶應2年(1866)に柳島に転居し、
その後、浅草旅籠町2丁目、浅草区東三筋町34番地に住みました。
逸話:
弘化元年(1844)、20歳の時に朋友とともに観相家に吉凶を占ってもらいました。
すると短命の相があり、25歳までしか生きられないから自愛するように言われました。
落胆するとともに、嫡男であるのに父母に先立つことを悲しみ、
そのことを父母には語らずに、秘かに稼いだ工賃を蓄え始めました。
それを聞いた師の有得斎玉溪は哀れみ、名を変えたら運命を変えられると言って、
「壽得斎」の号を与えたのでした。
その頃、京橋桶町の町名主・池谷権兵衛
という夫婦と親子のように親しくしていました。
池谷夫妻も哀れみ、池谷夫人は蓄えた工賃を管理して利殖に努めてくれました。
池谷夫妻は蓄財して幕府御家人の株を買い、
両親の老後の養料にしようと考えてくれていたのでした。
そうして健康に注意して過ごしていると、25歳を過ぎても特に災いもなく、
27歳の時には母が没し、30歳の時には父も病気となったので、
その看護のためにと妻を迎えました。翌年父も没しました。
自らの覚悟に反して、意外にも両親を看取ることができたのは子として幸いだったと思い、
池谷夫妻に預けた貯金で葬儀、追善供養を厚く行いました。
作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
・永青文庫(藤蒔絵煙管筒)
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