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  •  菱田家 (ひしだけ)
    菱田家花菱紋

     家系:
    菱田家は徳川幕府の御用蒔絵師として、また4代将軍徳川家綱とその正室の廟所に蒔絵をした家としてその名が知られていますが、それ以外は全く不明でした。
     私は『漆工史』39号・40号、『暁斎』130号において、 新たに発見した東京都文京区の曹洞宗諏訪山吉祥寺の菱田家墓所の調査結果と文献を精査して、 江戸初期から幕末までの菱田家代々の履歴を明らかにしました。 これまでは、漆工研究家でもあった飯島虚心の稿本「蒔繪師傳」により、 菱田家は小田原北条氏に仕えた幸阿弥家の分家とされてきました。 しかし調査によって北条氏に関わりはあるものの幸阿弥一派ではないことも分かりました。

     家伝によれば、菱田家は藤原為憲を祖とする工藤氏の流れを汲み、菱田姓は石橋山の合戦で敗れて自害した工藤茂光の孫が伊豆国「菱田邑」を領したことに因むとされます。 しかし伊豆国に菱田村は実在しない可能性が高く、中世以前の記述は信憑性に乏しいようです。 江戸時代より前の系譜や幕府の御用職人となった経緯については不明な点も多くありますが、 小田原北条氏に仕えた武将・菱田房能の子が転業して漆工になったとことは事実と考えられます。
     菱田房能は、北条氏房(1565〜1592)に仕え、片諱を賜るほどの武将で、 母も北条氏の重臣・板部岡江雪斎(1537〜1609)の息女でしたが、 北条氏滅亡後は高野山天野に蟄居していました。 しかし外祖父・板部岡江雪斎の推挙で江戸に上って徳川家に仕え、関ヶ原の合戦で軍功があり、采地を賜ったとされます。

     系譜上は菱田房能の孫・房貞が漆工としての創業者とされますが、房貞の父がすでに漆工であったようです。 それは寛永9年(1632)、芝・増上寺に造営された2代将軍・徳川秀忠の廟所・台徳院廟(東京大空襲で焼失)に 「塗師 菱田孫左衛門尉房長」と石文としてその名が刻まれれていることと、 享保元年(1716)に幕府に提出された「御役塗由緒書」に、 「権現様の御代より、恐れながら私共、代々、御切米、御扶持方下し置かれ、別段の御奉公を相勤め罷りあり・・・」 との書き出しに始まって奈良・栗本・鈴木・菱田・栗本・榎本・太田の7家が連名で署名しているからです。 これらのことから徳川幕府草創期から、菱田家は漆工として幕府の扶持人であったと考えられます。

     各代略歴:
    ・初代 菱田 房貞  ? 〜1694
    系譜上は菱田房貞が創業者とされますが、その父がすでに漆工であったようです。 房貞の父は系譜上は菱田房則とされ、台徳院廟の石文にある「塗師 菱田孫左衛門尉房長」とは諱が一致しませんが同一人物とみられ、父の代から幕府扶持人の御塗師であったようです。
     菱田房貞は、通称が甚右衛門で、諱が房貞で、栄休と号しました。ただし栄休は、戒名から同音の永休であった可能性もあります。 延宝8年(1680)、上野寛永寺の4代将軍・徳川家綱の厳有院廟、さらに翌年にその御台所の高厳院廟の造営に参画しました。
     元禄7年(1694)6月3日に没し、「不携院殿罷翁永休居士」と諡され、 吉祥寺の菱田家墓所に葬られました。隣接する墓所は小大名や旗本の家々ですが、それらと比肩しうる壮大な墓所と巨大な墓石から、その権勢が窺われます。

    ・2代 菱田 成信  ? 〜1708
    房貞の子で、はじめ源之丞を称しました。諱の成信は、父・房貞が板部岡江雪斎の子で旗本の岡野房恒に頼んで命名されました。
     4代将軍家綱の御台所・高厳院廟造営に見習で参画し、 元禄7年(1694)、父の没後、家督相続して甚右衛門を称しました。 同10年(1697)、神田皆川町2丁目に139坪の町屋敷を拝領しました。 同15年(1702)、加賀前田家江戸藩邸への5代将軍・綱吉の御成に際し、御成御殿造営に参加した記録が残っています。
     宝永5年(1708)4月19日に没し、「了智院殿本然覺宝居士」と諡され、吉祥寺の菱田家墓所に葬られました。

    ・3代 菱田 房明 1697〜1766
    字を香、信、そしてと改めました。 代々の通称・甚右衛門を称し、諱が房明で、晩年に国名の丹波を称することを許されたようです。 一牛居士と号し、居宅を琴泉居と号しました。
     元禄10年(1697)、菱田成信の子に生まれ、 12歳にして両親を失い家督を継ぐことになりますが、悲しんで3日間何も飲まず、3年間嬉戯することもなく、 やがて学問に目覚め、幕府儒臣の林鳳岡について儒学を学びました。
     享保16年(1731)に日光東照宮修復御用を務め、 同20年(1735)に8代将軍・徳川吉宗の養女・利根姫が伊達宗村に嫁いだ際の婚礼調度を製作しました。
     本業のみならず、幕府に対し様々な建白を行い、 異才として若年寄の本多忠統や西丸若年寄の加納久通が登用を検討したこともありましたが実現しませんでした。 武技、馬術、和歌、聞香をよくし、飛鳥井家から鞠礼も受けています。
     明和3年(1766)正月7日に70歳で没し、「西来院柏蔭庭樹居士」と諡され、吉祥寺の菱田家墓所に葬られました。

     妻の小谷氏は父が歌人・小谷圓法で、その実兄は林榴岡の門人で尾張藩儒となった久野鳳湫(1696〜1765)です。 幼くして越前国福井藩主松平家の江戸藩邸で、10代藩主松平吉邦(1681〜1721) の正室となった日野西中納言国豊の息女・梅姫に仕えていましたが、のちに菱田房明と結婚し、三男一女をもうけました。
     次男の房行が家督を継いで4代となりました。 三男の菱田善右衛門亀年(1734〜1809)は5歳で信濃国飯田藩に出仕し、その後登用されて藩政改革を行いましたが失敗し、責任を取って飯田藩を退去しました。 その後、江戸へ出て伊東藍田と改名して学者として有名になりました。 藍田の子・氏幹は飯田藩退去を免れて代々飯田藩に仕え、幕末の菱田鉛治氏敷の三男が近代日本画家の菱田春草となりました。

     作品を所蔵する国内の美術館・博物館:

    ・大阪市立美術館(六玉川蒔絵料紙硯箱)


    ・4代 菱田 房行  ? 〜1808
    3代・菱田房明の次男で通称が八十八で、のちに国名の伊豆を称しました。字が鵬擧で諱が房行です。
     安永7年(1778)と寛政10年(1798)に、日光東照宮修復御用を務めましたが、その頃には国名の丹波を称することを許されていました。
     文化5年(1808)2月2日に没し、「宝積院性山善慶居士位」と諡され、吉祥寺の菱田家墓所に葬られました。

     長男・惟寅は『本朝盲人伝』にも採録される菱田大庵(1748〜1778)です。生まれてすぐに母を失い全盲となり、 祖母の小谷氏に育てられ鍼医となりました。『本朝盲人伝』によれば儒学も学び、記憶力も良く、 『鍼灸素難要旨』を諳んじていたことが記されていますが、30歳で没しました。 父・房行が日光東照宮修復御用で赴任中だったため、叔父の伊東藍田が葬儀を執り行いました。 房行の跡職は次男の房道が5代となって継ぎました。

    ・5代 菱田 房道  ? 〜 ?
    4代・菱田房行の次男で通称を源之助、後に八十八と称しました。諱が房道です。 記録は全くありませんが。文化5年(1808)に父・房行の跡職を継ぎ、文政2年(1819)に隠居したと考えられます。 本来の菱田家の血統はこの房道で絶えてしまいました。
     「翠柳院箪岳了紅居士」が戒名とみられ、墓石は叔父の伊東藍田の書によって生前に用意されたとみられますが、 没年も刻まれておらず、最期の消息がつかめません。

    ・6代 菱田 自得 1793〜1868
    菱田自得 菱田自得は諱が元明で、八十八を通称とし、大隅・能登・駿河の国名を許されて称し、 剃髪を機に自得と号し、友松軒を別号としました。
     寛政5年(1793)に信濃国川中島南原村の本陣・伊藤文五郎の長男に生まれ、 文政2年(1819)2月に5代・菱田房道の養子となり、同年7月に家督を相続しました。 しかし房道の婿養子でもなく、それまでの菱田家と一切血縁もありません。 どのような事情で伊藤家から養子となったのか全く資料がありません。 伊藤家は南原村の本陣を務める豪農商で、領主の松代藩や隣の飯山藩に御用金を用立てて双方から扶持を受け、 実弟の伊藤一学は一代限りの士分となり、明治維新で士族になりました。 地方でこれだけの繁栄を築きながら、それでも江戸の幕府御用達職人の株というものは非常に魅力的で、 父の伊藤文五郎は経済力をもって長男を菱田家へ養子に入れたのだと推測されます。
    菱田自得  菱田自得には実子が育たず、天保8年(1837)に実弟・伊藤豊五郎を養子としています。
     度重なる江戸城の火災で、天保度の江戸城西丸御殿の再建、弘化度の本丸御殿再建、万延度の本丸御殿再建では、 御殿の造営や城内の調度の制作を行いました。
     嘉永3年(1850)の日光東照宮修復御用、 翌年の13代将軍・徳川家定継室・寿明君一条秀子の上野寛永寺澄心院霊廟造営、 小石川伝通院修復、安政6年(1859)の東叡山御霊屋修復並御廟所普請、 文久元年(1861)の皇女和宮入城の際の御車の修復や御殿の造営や上記の御殿再建などの 重要な幕府事業では、作事方の支配下に入って、御蒔絵師棟梁に任命されて参画しています。
     幕末期の菱田自得は、同業の御蒔絵師の中でも最年長で、 政治工作に長けて漆工界に君臨していました。 安政の大獄の際、幕閣直属の諜報機関の徒目付から大老・井伊直弼へ提出された 幕府御細工所内の不正の風聞に関する探索報告が彦根城博物館の井伊家文書に現存していますが、 不正の中心人物と指摘されています。 探索報告の中で菱田自得の人物については「才気も有之利口にて」と評され、「御用向事慣れ過」ぎとされています。 ただしその直後に「桜田門外の変」があったためか、証拠不十分だったのか、 懲罰を受けることなく、さらに繁栄を極め、 文久2年(1862)正月には、養子の駿河暢孝、その子・能登と共に、3世代揃って将軍に御目見しました。
     しかし慶應4年(1868)5月9日、 神田明神下台所町の旗本・小貫弥太郎(1791〜?)の屋敷地内に借家して住んでいたところ、 大風雨で崖上にあった神田明神の土蔵が倒壊してきて、夫婦ともに死去しました。76歳でした。 「鶴翁院仙巖自得居士」と諡され、夫妻の墓石の碑文は、 幕府与力で漢詩人の植村蘆洲(1830〜1885)の撰で、 書家の萩原秋巖(1803〜1877)が書しました。

     御蒔絵師としての業績以外では、万延元年(1860)、 裏千家8代・一燈宗室の茶書「又玄夜話」を『又玄夜話抜萃』として出版したことでも知られています。 菱田自得の茶道への傾倒と出版事業への参入として注目されます。

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    ・菱田 暢孝 1806〜1862
    信濃国川中島南原村の本陣・伊藤文五郎の三男に生まれ、 天保8年(1837)に実兄・菱田自得の養子となって御蒔絵師見習となり、駿河の国名を称することをゆるされています。
     安政6年(1859)12月に、幕府がアメリカ大統領及び政事官へ贈った進物に掛幅がありましたが、 その軸首に蒔絵をしました。
     文久2年(1862)正月には養父・自得、実子・能登と3世代揃って将軍に御目見しています。 しかし見習のまま同年12月4日に57歳で病死し、「保善院秀峯良智居士」と諡され、吉祥寺に葬られました。
     柴田是真とも交友があったようで、 江戸の町名主で『江戸名所図会』の著者・斎藤月岑の日記には、 柴田是真と菱田駿河の2人が一緒に訪ねて来たことが記されています。

    ・菱田 大和  ? 〜 ? 
    菱田暢孝の次男で、国名の能登を称し、後に大和を称することを許されています。 文久2年(1862)正月には祖父(実の叔父)自得、実父の暢孝と共に3世代揃って御目見しました。 同年3月27日には、日光御宮御霊屋御修復御用を務めました。 同年12月4日に実父・暢孝が没したため、祖父(実の叔父)自得の養子となり、 大和と改めています。
     翌年、14代将軍・徳川家茂が孝明天皇に進献した「花鳥蒔絵箪笥」を太田播磨とともに制作しました。 その下絵は河鍋暁斎によるもので、京都繊維工芸大学に現存しています。 幕府最末期に家督を継いだ可能性もありますが資料がなく、その最期も不明です。

     菱田家系図:
    菱田家系図

     格式:
    菱田家は、幕府御細工頭支配の御蒔絵師で、代々の身分は武士に准じるものでした。 「御役塗由緒書」に名を連ね、徳川幕府草創期から徳川家に帰属した7家のうちの一つで、 家禄は40俵4升2人扶持です。正月朔日には将軍家に御目見もします。 皆川町二丁目に139坪の拝領町屋敷を有していました。 幕府御用達の職人でも扶持と町屋敷を賜る者は少なく、高い格式を誇りました。

     武鑑:
    武鑑は大名・旗本・幕府役人の氏名・禄高・系図・家紋・屋敷所在地・ 重臣の氏名といった情報を記し、 民間の書肆が営利目的に刊行していた本です。 実はこの武鑑には御用達町人も掲載されています。 宝暦12年(1762)刊行の「宝暦武鑑」を例に見てみましょう。「▲御蒔絵師并塗師」 のところを見ると3番目に「四十俵二人ふち/皆川丁二丁め/□菱田丹波」とあります。 □印は御細工所御用を表しています。武鑑の変遷を見ると、住居や位列の変化を追うこともできるのです。









     住居:
    天和3年(1683)に刊行された武鑑『癸亥江戸鑑』に、初めて菱田家居所の記述がみられ、 「銀丁一丁め 御ぬしや 菱田甚右衛門」とあり、神田・白銀町(しろがねちょう)一丁目であることが分かります。 神田は職人町で塗師町もあったくらいですから、それ以前から元々この近辺に住んでいたと考えられます。 武鑑では宝暦10年(1760)まで同所となっています。
     2代菱田成信は、元禄10年(1697)8月4日に神田・皆川町に139坪の屋敷地を拝領しました。 この拝領町屋敷は当初貸家にしていたと考えられます。そもそも拝領町屋敷は、御用職人が安定して御用を務められるよう、 貸家とすることが公認されたものだったからです。 この地は陸奥福島藩主・堀田伊豆守正虎の上屋敷であり、 その周辺の酒井石見守、神尾伊予守、遠山権左衛門の4人の屋敷を収公し、 新たに犬医師2名、作事方の職人17名、御細工所の職人15名、能楽師13名に分割して屋敷地が与えられたのです。 その際、新道を通し、区画整理をして細分化されました。 後に皆川町二丁目と呼ばれる街区は、 北から幸阿弥与兵衛、榎本又右衛門、菱田甚右衛門、太田勘兵衛、鈴木弥左衛門、奈良八郎左衛門の 御蒔絵師6家に、並んで下賜されています。
     武鑑では宝暦11年(1761)から皆川町二丁目となっています。 拝領町屋敷は貸家にして、元の白銀町一丁目の家に住み続けたのが、何らかの事情により拝領地の皆川町二丁目の一部または全部に実際に住むようになったと考えられます。 それにより上に掲載した『宝暦武鑑』のように幸阿弥因幡・菱田丹波・太田播磨・奈良土佐 ・榎本遠江・鈴木弥治兵衛の6人の御蒔絵師の居所がすべて「皆川丁二丁め」となったのです。
     嘉永元年(1748)以降は神田明神下御台所前町の旗本・小貫弥太郎の敷地内に借家して住みました。 幕末の御用達職人は、江戸の中心部から少し離れた武家屋敷内に借家して住む者が多かったようです。 打ちこわしなど世情不安定で、夜間に町人地に住むのが危険だったからでしょう。
     一方、工房はそのまま神田・皆川町二丁目に存在していたと考えられ、 文久までに神田・主水河岸(もんとがし)に移されたと考えられます。 菱田家




     下職:
    菱田家は幕府御用を務めるために多くの工人を抱えていました。その中には明治以降に有名になった人物も多くいます。 彼らはその履歴に菱田家配下であったことを誇らしげに記しています。菱田家は最高の下職集団を抱えていたのです。

    ・仕手頭 田邊 源助
    仕手頭とは、御用蒔絵師の配下で実際に多くの工人を指図した者とされます。 菱田家の仕手頭は代々、田邊源助で、鈴木佐渡、菱田駿河、栗本信濃の諸家からも職方仕手頭を託せられていました。 特に4代源助(1787〜1849)は照房と号し、また日光、芝、上野の霊廟修復や江戸城本丸御殿上段之間の天井蒔絵で多数の職工を指揮して名声を博し、 その門弟は梶山明細や金井清吉をはじめ三十余名もいました。 神田・皆川町の田邊家(おそらく菱田家の拝領町屋敷内にあったのでしょう)では、原羊遊斎門下で叔父の田邊平治朗もおり、 その後、原羊遊斎の工房にいた昇龍斎光玉(つんぼの金次郎)・ 岩崎交玉も、 羊遊斎工房閉鎖後に田邊家に身を寄せています。 明治初期の輸出漆器製作に携わる多くの若手蒔絵師がこの田邊家で育成されました。

    ・塗師 喜三郎
    菱田家の下職として働く塗師として喜三郎の名が伝えられています。 この喜三郎は、近代の茶器塗師として有名な、かの渡邊喜三郎の先祖です。 今日、塗師・喜三郎と言えば、益田鈍翁の好み物を製作した 近代になってからの三代の茶器塗師を指しますが、 実はそれ以前にさらに3代の塗師が存在して菱田家に帰属していました。 4代の喜三郎(近代の初代渡邊喜三郎)の履歴として、 「此時より通稱門徒河岸ノ喜三郎又菱田ノ喜三郎と稱ス」とあります。 「門徒河岸ノ喜三郎」とは「主水河岸に工房があった菱田家専属の塗師・喜三郎」であり 「菱田ノ喜三郎」とは雇い主の苗字を示し、「菱田家専属の塗師・喜三郎」で、 どちらも菱田家に帰属していたことを示しています。

    ・川勝 照玉斎
    『東京名工鑑』に採録される明治期の蒔絵工、川勝逸吉、業名照玉斎(1827〜?)の履歴には、 「田邊源助并ニ菱田自徳ノ兩人ヨリ傳習シ 今ヨリ二十余年前開業 師匠菱田自徳 從來徳川家漆器用達ヲ勤ムル所縁ヲ以テ仍ホ同家ノ用品ヲ製造セシカ(後略)」と記され、 仕手頭・田邊源助に手ほどきを受け、その監督者である菱田自得にも師事していることがわかり、 なおかつ田邊家が菱田家内に存在したであろうことことが読み取れます。

    ・市島 浅次郎
    市島浅次郎(1845〜?)は明治期の塗師で、 『代表的人物及事業』の履歴には「安政六年初めて徳川家塗師方御用達菱田某氏に就いて學び」 と記されています。すなわち15歳で菱田自得に師事しています。 刻苦精励して修業し、明治2年(1869)に25歳で独立したそうです。

    ・伊東 貞文
    明治時代に漆工として活躍した伊東貞文(1853〜1917) の履歴にも「文久元年江戸神田主水河岸徳川幕府漆器蒔繪製作細工場棟梁菱田自得に就て漆器製作を練習す」 とあり、9歳から16歳まで菱田自得に師事したことと、 その工房が文久当時、神田・主水河岸に存在していたことが記されています。

    ・下画かき 松
    「松」とのみ伝えられ、正確な名前も分かりませんが、蒔絵下絵を専門とする絵師で、巧妙な下絵で画料が非常に高かったと伝えられます。 この「松」を菱田家は専属の下絵師として雇っていました。 蒔絵下絵が特殊技能として、世間から高く評価されていた証拠です。 ただ安政頃に没してしまい、菱田家が「松」に代わって雇ったのが、 若き日の河鍋暁斎でした。
     「松」の逸話は飯島虚心著『河鍋暁斎伝』のほか、飯島虚心の稿本「蒔繪師傳」にも採録されています。

    ・河鍋 暁斎
    幕末・明治に柴田是真と並び称された有名な絵師です。 安政2年(1855)10月2日に発生した安政の大地震の際、飯島虚心著『河鍋暁斎伝』によると、 この頃暁斎は「蒔絵師菱田氏に雇はれ、専ら蒔絵下画を画きたり」と記されています。 上記の「下画かき 松」が没した後、下絵師を探していた菱田家が見出したのが無名ながら画才があった若き日の河鍋暁斎だったのです。 推薦したのは暁斎の師・狩野洞白でしょう。菱田自得は幕府の事業で洞白と共同で作業に当たっていました。 そして暁斎は、安政の大地震当日も皆川町の菱田家にいて仕事をしていましたが、菱田家が倒壊を免れ、 すぐに本郷の実父の家、駿河台の師家・狩野洞白家に行き、いずれも倒壊を免れていたと語った逸話も 『河鍋暁斎伝』に採録されています。
     河鍋暁斎は安政5年(1858)に絵師として独立したとされますが、 その後も菱田家の仕事もしていたと考えられます。 禁裏に徳川将軍家が献上した箪笥は文久3年(1863)に暁斎が下絵を描き、菱田大和と太田播磨で製作しているからです。
     これまで若き日の河鍋暁斎は不遇だったとされてきました。しかし当時の菱田家の権勢、通勤するほどの仕事量、また蒔絵下絵師の報酬、 そして進献箪笥の下絵を描いたことなどを勘案すると、 決して社会的地位が低かったわけでもなく、不遇でもなかったと考えられるのです。


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    2024年7月15日UP