初代 石井 有得斎
(いしい うとくさい) ?〜1862
流派: 古満派
家系:
石井有得斎については、これまで全くと言ってよいほど経歴も、名前すらも知られていませんでした。
調べ始めてから20年以上経った最近になって、偶然その出自が分かってきました。
生年は未だに分かりませんが、武蔵国橘樹郡神奈川宿に生まれ、江戸に暮らし、最期は故郷で没した人です。
石井有得斎の通称が次郎吉(あるいは治郎吉)であることは以前から『東京名工鑑』や他の文献から分かっていましたが、
神奈川宿の名主で東本陣を勤めた石井家の一族であることが新たに判明しました。
石井家は「丸に三鱗紋」を家紋としていますので、後北条氏の地侍だったようです。
神奈川宿東本陣の当主・石井源左衛門の後見人で、叔父の石井弥十郎の長男に次郎吉の名を確認できます(神奈川県立公文書館【武蔵国橘樹郡神奈川宿本陣 石井家文書】〔石井弥十郎履歴〕)。
つまり石井有得斎は、神奈川宿東本陣当主の従兄弟ということになります。
次郎吉の父・石井弥十郎は石井源左衛門の三男で、
寛政元年(1789)に別家して江戸に出て芝・西應寺町に住み、
文政元年(1818)から日本橋・本材木町4丁目に住んで金吹町の商家に奉公していました。
ところが弥十郎が別家して江戸に住むようになって30年以上たった文政4年(1821)、
郷里の神奈川宿の石井本家において、
弥十郎の兄で当主の石井源左衛門が没し、幼年の甥・太五郎が当主となって源左衛門を襲名することになり、
弥十郎は神奈川宿に呼び戻されて本家の後見人となりました。
弥十郎には多くの子がおり、次郎吉は長男でしたが江戸に残り、妻のルイ、次男・弥五郎順孝、三女・政、五女・光などを伴って神奈川宿に帰りました。
弥十郎も病気であったため、後見の実務は次郎吉の実弟・順孝が行い、弥十郎の没後には順孝が後見となりました。
この順孝が詳細な日記を残しており、全文翻刻されて
『東海道神奈川宿本陣 石井順孝日記』(ゆまに書房、2001年)として刊行されています。
石井家系図:
略歴:
武蔵国橘樹郡神奈川宿東本陣当主・石井源左衛門の弟・石井弥十郎の長男に生まれ、次郎吉と命名されました。
父・弥十郎は別家して江戸の日本橋・本材木町に住み、商家に奉公していました。
文政4年(1821)、父が幼い当主の後見となって郷里に帰った際、次郎吉は江戸にそのまま残りました。
おそらくすでに古満派の蒔絵を学んでいたからでしょう。
その後、「有得斎 玉溪」と号する印籠蒔絵師となりました。
有得斎の師については、古満派の蒔絵師ということだけしか分かっておらず、不思議なことに名前が伝えられていませんでした。
ところが実弟の「石井順孝日記」文政8年(1825)に石井有得斎の師に関する記述を新たに見つけました。
11月17日:
江戸より兄被参ル、内々談し師匠より養子ニ致し度段噺有之候
11月21日:
次郎吉同道、小伝馬町重蔵殿江立寄、是ハ此度次郎吉殿ヲ養子ニ致度段談し
12月2日:
次郎吉、師匠重蔵方江養子之儀二付親類平兵衛ト申仁被参ル、右談し致早ぐ帰ル
師の名前として小伝馬町に住む「重蔵」という名が登場し、その師の養子となる話が出てきます。
しかし日記を読み進めると、途中で重蔵の実子の金次郎の後見となるように話が変わったらしく、
仲人の大門通平兵衛との間でもめています。この「重蔵」が誰なのかはやはり不明なのですが、
通常「じゅうぞう」と読むこの名は、稀に「しげぞう」とも読むことから、
あるいは「繁蔵」を通称とし、「自得斎 玉山」と号した大村玉山
のことだろうと私は推測しています。
それは「有得斎 玉溪」と「自得斎 玉山」が「得斎」と「玉」の字が共通すること、
石井有得斎も弟子に「壽得斎」「玉得斎」「一得斎」など「得斎」が付く号を授けていること、
そして大村玉山の下絵を石井有得斎の門人・小田玉得斎が所蔵していたためです。
この「重蔵」と大村玉山が同一人物とすると、
経歴がほとんど不明な大村玉山の情報としても重要な記録となります。
残念ながら決定的な証拠に欠けるために師の確定はできませんが、
師の名前が伝えられていないのは、こじれた師弟関係に原因がありそうです。
有得斎の経歴は、石井有得斎 → 長谷川光祗(門人) → 長谷川宗永、
と語り伝えられました。おそらく有得斎は師匠について、弟子たちに語りたがらなかったのでしょう。
いずれにしても「有得斎」という号を授けられたのは、実家が裕福な本陣だったため、
「有得(徳)人」(裕福な人)という言葉に掛けたのだろうということは容易に想像できます。
よってその読み方は「ゆうとくさい」ではなく「うとくさい」です。
明治12年に刊行された『東京名工鑑』の長谷川光祗の経歴に、
師である「有得斎」のことを「宇徳斎」と誤記しているのも、
逆に読み方が「うとくさい」であったことを裏付けています。
石井有得斎は印籠の名工として知られるようになり、
徳川将軍家の御用品や、超高級袋物商の「丸利」(丸屋利兵衛)・「宮川」(宮川長次郎)の注文品を製作し、
また後述するように姫路藩からの注文も受けていたようです。そして多くの門人を育成しました。
晩年、病気で仕事ができなくなって郷里の神奈川宿に帰り、それからほどなく文久2年(1862)4月5日に病死しました。
江戸には多くの門人がおり、その一人であった長谷川光祗が、
江戸谷中・三崎南町の正栄山妙行寺に分骨し、門人たちがお詣りするために墓石を建てたことが文献にみえます。
かつて私は1998年に妙行寺を訪ね、御住職のご協力も得て過去帳も調べましたが、
わずかに明治13年に54歳で没した長男・治郎兵衛室の記述しか見つけられませんでした。
そして、あきらめて帰ろうとしたまさにその時、無縁仏の墓石群中に、偶然その墓石を発見しました。
墓石には「有得斎玉溪霊位」と刻してあり、そこに「丸に三鱗紋」を確認したのでした。
また2019年には石井有得斎の父・石井弥十郎一家の墓所が神奈川・能満寺にあることをつきとめ、
石井家墓所を訪ね、分家の弥十郎一家の墓石も確認できました。
しかし残念ながら、有得斎の墓石などの特定には至りませんでした。おそらく代々の墓に合葬されているのだと思います。
家と蒔絵師としての業は、長男の次郎兵衛が継ぎ、同じく有得斎玉溪を号しました。
「石井順孝日記」:
「石井順孝日記」は神奈川県立公文書館の所蔵で、
ゆまに書房から『東海道神奈川宿本陣 石井順孝日記』1〜3として全文翻刻されています。
石井有得斎の実弟・石井弥五郎順孝は、神奈川宿東本陣の後見人として本陣を切り盛りし、
その記録として文政6年(1823)から天保4年(1833)まで日記を付けていました。
順孝は、用事があって江戸に出てくると、
かつて住んでいた本材木町4丁目の兄・次郎吉=石井有得斎の家に逗留しました。
日記には、興味深い記述がいくつもみられます。
天保3年(1832)12月11日、兄・次郎吉の家に逗留した時の記述は、
まさに有得斎の家で製作していた蒔絵の完成品のことが書かれています。
本材木町ニ逗留致候、此節姫路様より公儀ヘ御土産ニ相成候御屏風半双八枚折仕上ケ蒔絵貝鼈甲瀬戸物、
其外種々之細工有之、弐度与此様之品は見物致候儀ハ不相成候、
漸々御用達ヘ相納候、凡金五百両斗之品之由也。
とあります。これは実に貴重な記録です。
この10日前の12月1日、大御所・徳川家斉の25女・喜代姫が
姫路藩5代藩主・酒井忠学に嫁いだことに関係していいます。
「公儀ヘ御土産」というのは、将軍家姫君は結婚後も一年に一度、実家である江戸城へ登城するので、
婚姻後、最初の里帰りの際の父である大御所・家斉への手土産と考えられます。
蒔絵、貝、鼈甲、瀬戸物象嵌とあり、笠翁細工の8曲1隻屏風を製作したようです。
石井有得斎は、500両で姫路藩御用達からこの仕事を請負ったようで、
石井順孝は、二度とこのような品は見ることができない、と書き記しているのです。
この「御用達」が御用商人のか、御用蒔絵師なのか分かりませんが、笠翁細工なのが気になります。
姫路藩の御用蒔絵師の竹内生司は螺鈿や、鼈甲などを象嵌した独特な作風で知られ、
実作を石井有得斎が請け負っていた可能性もあるからです。
石井有得斎がこの屏風の注文を受けていたためか、
この年の2月22日には、姉・ゆきえ(遊喜衛)が次郎吉の家に来て泊り、
ゆきえが姫路藩邸で若殿様御側へ勤めるために御目見したものの採用通知がなく、
再度頼みに行くことを相談している様子も記されています。
翌日には、大手下馬先の姫路藩上屋敷に行って江戸留守居役・出淵伊惣次に会うなど、
その後も兄弟で姉の就職活動に奔走しています。残念ながら姫路藩の奥向には採用されませんでしたが、
出淵伊惣次の推薦があったらしく、その後、松江藩主・松平家の大崎下屋敷に奥女中として採用されたことを日記から読み取ることができます。
ゆきえは松平家の奥向きで「浦多(〔石井弥十郎履歴〕による。日記では「浦田」)」と改名して
御殿勤めをしました。
門人:
石井有得斎玉溪(2代・実子)・長谷川光祗・石塚観羊斎・石井一得斎・小田玉得斎
石塚観羊斎下絵集:
フィンランドの印籠コレクター、ハインツ・クレス氏所蔵の下絵集で、
裏表紙見返しに「めいじん/石井治郎吉様ノ下繪/
石塚菊之介/十四才ノ年ノおやかた也/嘉永三年戌三月吉日」とあります。
石井有得斎の門人だった石塚観羊斎が使っていた下絵集で、師の有得斎の下絵も含まれているようです。
住居:
石井有得斎は、父・弥十郎とともに江戸で暮らしていたとみられます。
父が甥の後見人となるため郷里の神奈川宿に呼び戻されましたが、
有得斎は江戸に残り、弥十郎一家で住んでいた本材木町4丁目の家に住み続けたようで、
「石井順孝日記」が記された天保当時もそこに住んでいことが分かります。
この地には魚河岸があり、肴店(さかなだな)とも呼ばれていました。
そのため『東海道神奈川宿本陣 石井順孝日記』では、次郎吉が魚河岸の仕事をしていたと誤解しています。
そうではないことは、上記の屏風の記述でも明らかです。
門人・石井一得斎(源兵衛)の『東京名工鑑』の履歴には、
11歳から18歳まで「日本橋桶町ニ住セシ有得齋橘玉山(ママ)」に
師事したことが記されているので、嘉永・安政頃は桶町に住んでいたようです。
晩年は病気になって郷里の神奈川宿に帰りました。
作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
・九州国立博物館(海賦蒔絵印籠)
・大阪市立美術館(七福神若松鶴蒔絵金工象嵌印籠)
・東京富士美術館(翁蒔絵印籠)
作品を見る⇒
2代 石井 有得斎
(いしい うとくさい) 1835〜?
流派: 古満派
略歴:
天保6年(1835)に石井有得斎(初代)の子に生まれ、通称を治郎兵衛としました。
父に蒔絵を学び、文久2年(1862)に父が病気で郷里の神奈川宿に帰ったために家を相続し、
有得斎玉溪を号しました。
父の得意先を引継ぎ、徳川将軍家の御用品や
袋物商「丸利」(丸屋利兵衛)・「宮川」(宮川長次郎)の注文品を製作していました。
明治8年(1875)からは、蓑田長次郎の依嘱を受け、
明治11年(1878)からは精工社の製品を製作し、
第二回内国勧業博覧会へは精工社から出品の「岩薔薇孔雀芝山象嵌蒔絵二曲屏風」と、
「忠盛祇園夜雨芝山象嵌蒔絵額」を製作し、妙技三等賞牌を受けました。
しかし下職を持たず、一人で細々と製作を続けていたらしく、
明治十年代後半には廃業するか没したようで、その後の資料には登場しません。
正栄山妙行寺の過去帖にも次郎兵衛室が明治13年(1880)に54歳で没した記載があるので、やはりこの頃でしょう。
アメリカのウォルターズ美術館の「蔦蒔絵硯箱」や大阪市立美術館の「柳鷺蒔絵煙管筒」など、
幕末・明治期に流行した是真風のものや芝山風や笠翁風の作品を作っていたようです。
住居:
『東京名工鑑』によれば、東京市深川区西六間堀町32番地に住んでいました。
作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
・大阪市立美術館(龍蒔絵印籠・柳鷺蒔絵煙管筒)
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