古満 文哉 (こま ぶんさい) 1811〜1871
流派: 古満派
略歴:
初代古満寛哉の次男で、文化8年(1811)に生まれ、
通称を欽十郎としました。
幼少より父寛哉の薫陶を受け、兄嫁の父・谷文晁に画を学び、その一字を貰って文哉と号して一家をなし、
別家しました。
文晁は、門人である文哉に、秘蔵する室町時代の雁蒔絵の食器を贈りました。後に文哉は
「此品原家嫂之父谷文晁之所蔵以秘業描金見贈之而余甥榊原芳野嗜古之癖浮於余是以再轉與之云
描金工 古満阪内文哉郁 記」
と箱書し、博覧多識で知られた甥の榊原芳野に譲りました。
明治4年(1871)10月18日に没して入谷の正洞院に葬られ「郁庵文哉居士」と謚されました。
住居:
今戸八幡宮の境内に住んでいたと伝えられます。
逸話:
父の門人だった柴田是真と親しく、
谷文晁が喜寿の祝賀の際に配った盃は、是真と2人で製作しました。
是真が文哉の苦境を救った逸話は有名です。
文久3年(1863)、文哉が子沢山で貧乏の上に病気になった時、
是真は初代寛哉が嚢物商・宮川長次郎に尾形光琳作「扇面業平蒔絵硯箱」(根津美術館蔵)を質入したまま
没してしまっていたのを思い出し、銀座役人・辻傳右衛門に硯箱を周旋し、文哉を安心させるために
小判を大量の天保銭に両替して舟で今戸の文哉方に運び、枕元に積み上げました。
作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
・東京国立博物館(立雛蒔絵根付)
・東京富士美術館(波千鳥蒔絵象嵌印籠)
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2006年11月 5日UP 2022年 6月12日更新 |
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