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  • 豊川家梅鉢  豊川 楊溪(とよかわ ようけい) 

     流派:梶川派か

     家系:
     豊川家は、ごく近年まで漆工として家業を継続しながら名利を求めなかったために記録が残らず、 伝記が全く知られていませんでした。
     1994年、私は末裔の故・豊川桂一氏が所蔵していた家伝資料の存在を偶然知って調査させて頂き、断片的な諸文献を総合して研究し、 江戸の印籠蒔絵師であり、明治以降は螺鈿蒔絵師となったことを明らかにしました。

     大正元年(1912)に3代楊溪(1845〜1914)が美術雑誌『美術新報』(画報社)の取材を受けた際の記事があり、次のように記されています。

    揚溪氏は四十年前と少しもかはらぬ。昔コヤ場(将軍家)の仕事をしたと同じ気持ちで同じ態度で、 悠悠としてやつてる。外国と交通が開けようが、飛行機が出来やうが揚溪は依然として、先祖の印籠帖の圖案で忠實に、 精細に一人で漆の下塗から、螺鈿を象嵌して、研ぎ上げる迄何年でもかうしてやる。

    これは豊川家代々の様子を端的に表しています。江戸期には幕府御用蒔絵師の下職として幕府の御小屋での作業に従事したり、 徳川将軍家が用いる印籠を製作し、それを誇りとしていました。 そして明治維新後は、その確かな技能から明治政府の御用も勤め、さらに独特な腐食螺鈿を開発しました。
     豊川家には『美術新報』に「先祖の印籠帖」と記されていた「印籠下画帳」や、数冊の下絵集、製作用具、兜のように頭にかぶるルーペを付けたメガネが残されていました。 子孫の元に江戸期以来の仕事道具や下絵が残されているのは非常に稀なケースです。
     江戸期のことは、伝承による部分が多く不確かなことが多くあります。 昭和の楊溪一家の櫛笄にはレイキ顔料による紫や水色など、様々な色漆が用いられていますが、 家伝によれば江戸期から紫漆など様々な色漆を使ったと伝えられます。実際に楊溪在銘の「渡船密陀絵螺鈿印籠」(大英博物館蔵) が現存しており、紫漆は密陀絵だった可能性が考えられます。佐野長寛の伝記に登場する本丸御用の印籠師が紫漆を使ったという話と年代的にも奇妙に符合する話でもあります。
     作品の多くは他の蒔絵師の作品として世に出ていたようです。しかし在銘の作品が世界各地に僅かに現存することから、ごく稀に自身銘で作品を作っていたと考えられます。
     家の起こりはよくわかりませんが、金工で有名な豊川光長や画家の豊川秀静とは同姓で、姻戚でした。 技術的な特徴からみて、幕府の御蒔絵師・梶川家の一門と考えられます。 3代以降は特殊な腐食螺鈿を用いる螺鈿蒔絵師となりました。


     各代略歴:

    豊川 楊溪 初代 ・豊川 楊溪 初代 ? 〜1842 

    江戸後期の江戸の印籠蒔絵師で、幕府御用蒔絵師の下請をしていたようです。 通称が彦八、号が楊溪、別号が生泉斎・碎金堂です。 生年は不明ですが、天保13年(1842)12月5日に没し、 代々の菩提寺である芝・増上寺の塔頭・花岳院に葬られ、「寒岑了山信士」と謚されています。
     狩野養信下絵の「福禄寿鶴印籠」など、印籠が僅かに現存しています。 また幸阿弥長輝作「石山寺蒔絵印籠」 と幸阿弥長輝作「秋草鶉蒔絵印籠」(ベネチア東洋美術館蔵)が、作風からこの人の手になるものと考えられ、 幸阿弥家の仕事も請け負っていたと考えられます。 このように幕府御用蒔絵師の代作をして、別人の作銘が入れられて徳川将軍家に納められていたと考えられます。 現存する自身銘の作品は数点しかありません。高蒔絵の技術は驚くべきもので、当時の蒔絵師と比較しても一流の腕前でした。

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    豊川 楊溪 2代 ・豊川 楊溪 2代 1813〜1868 

    江戸末期の江戸の鞘塗師・蒔絵師です。文化10年(1813)に初代楊溪の子に生まれました。 通称が彦八で、号が楊溪、別号が山晴斎・碎金堂です。 初代楊溪と同様に幕府御用蒔絵師の下請をしたり、幕府の御小屋での作業に従事していたと考えられます。 また鞘塗と印籠を得意としています。明治元年(1868)に没しました。
     印籠と鍔・木刀・櫛・矢立の作品が現存しています。 徳川将軍家のために印籠を製作したと言い伝えのある月次印籠「定家詠花鳥十二ヶ月揃印籠」12本分の下絵が 「印籠下画帳」にあり、実際にそのうちの8点の現存を確認しています。印籠の合口の精度などは初代以上ですが、現存する在銘作品は世界的に見ても十数点とごく僅かです。

     「印籠下画帳」:
    豊川家に代々受け継がれ、主に初代・2代の楊溪が使用していた下絵集で、表紙に「印籠下画帳」、裏に「碎金堂」と墨書されています。 多くの印籠下絵が貼り込まれており、幕府御用絵師の下絵も多くみられます。 木挽町狩野家の三世代、狩野伊川院栄信(1775〜1828)、狩野晴川院養信(1796〜1846)、狩野勝川院雅信(1823〜1880)のほか、 狩野探信守道(1784〜1835)、板谷慶意廣長(1760〜1814)などの下絵がみられます。 御用絵師が描いた印籠下絵も最終的には製作者の手元に残ったことが分かります。

     逸話:
    徳川将軍家の印籠を製作したり、幕府御小屋で製作することを誇りとしていました。 家伝によれば、蒔絵で金粉溜地を作る際に粉筒を使うことでムラができることを嫌い、 大胆にも大きな篩(ふるい)を使ったと伝えられます。初代・2代の頃の話と推測されます。

     作品を所蔵する国内の美術館・博物館:

    ・静嘉堂文庫美術館(猩々蒔絵印籠・鬼鍾馗蒔絵印籠)
    ・澤乃井櫛かんざし美術館(椿蒔絵矢立)

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    豊川楊溪3代 ・豊川 楊溪 3代 1845〜1914 

    弘化2年(1845)に2代楊溪の子に生まれました。 通称が彦八で、号が楊溪、別号が山晴斎で、碎金堂・蓬泉堂・蓬仙堂の堂号も用いました。
     父・2代楊溪に師事しました。上記『美術新報』の記事のように、20歳前後の時に父と共に幕府御小屋での作業に従事したこともあるようです。 明治元年(1868)、24歳の時に父が没し、家名を継ぎました。
     明治12年(1879)に刊行された 『東京名工鑑』に「工兼蒔繪 豊川彦八 業名山晴齋 三十五歳」として採録されています。 その履歴によれば、鞘塗の仕事をしていたところ、廃刀令によって仕事がなくなり、 横浜貿易向けに額面や手箱を製造し、明治9年(1876)からは外務省の用品を製造したとあります。 金杉村311番地に住み、納富介次郎(1844〜1918)と3年契約で輸出品を製造していました。6歳年下の実弟・伊三郎も同所で一緒に仕事をしていたことが『東京名工鑑』に記されています。 パリ万国博覧会へは香箱・香盆・手箱を出品しています。
     また家伝によれば、明治12年(1879)に来日したアメリカ前大統領のグラント将軍(1822〜1885)が浜離宮・延遼館に滞在した際のベットに梨子地海松丸蒔絵をしたと伝えられます。 史料の裏付けはありませんが、『東京名工鑑』の経歴に記される外務省御用を請けていた時期とも合致するので事実でしょう。
     のちに腐食螺鈿の独特な作風を確立したほか、簡易蒔絵法など様々な技法を発明しました。
     明治34年(1901)4月15・16日の読売新聞の記事によると、堆朱楊成・青山碧山とともに「根岸の三奇人」と呼ばれていたようです。 日本漆工会や日本美術協会の会員で、日本美術協会の「美術展覧会」の新製品の部に出品はしていますが、 名利を求めるようなこともなく、ひたすら技術の発明と作品の製作のみを追求し、 大正3年(1914)に没しました。
     長男・金太郎(4代楊溪)のほか、旧家の土井家に養子に行った次男・楊次郎こと豊川楊汀、 四男・豊川楊林(徳蔵)らも螺鈿工として活躍しました。

     住所:
    明治維新後、現在の鶯谷駅近くの根岸の金杉村311番地に住みました。 当時、寛永寺の跡地に「新坂」ができ、そこで狸を退治したという逸話が伝えられています。武芸にも達していたともいいます。 その後、上根岸町39番地に転居しました。

     逸話:
    徳川将軍家周辺の仕事に誇りを持っていましたが、腕が良かったために明治維新後は明治政府の御用も請けました。 明治政府の御用を拝命すると着手金が支給されますが、役所からの帰途に酒を飲んでしまいます。 着手金は金貨で支給され、それを一介の職人が飲み代に使うため、 怪しんだ羅卒(警察官)が家まで尾行すると、家の前には御用を拝命したために高張御用提灯が煌々と掲げられており、 羅卒が最敬礼して引き返した、というような逸話が伝えられています。
     明治になって様々な新技法を開発しました。特に腐食螺鈿は他に例を見ない独自のもので秘伝としていたため、 人々は薄貝を切り抜いていると思っていました。 明治34年(1901)の読売新聞の記事によると、細工中に人が訪ねて来ると風呂敷のようなものをひょいと載せて肝心なところを隠した、という話が出ています。

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    ・豊川 楊溪 4代 1885〜1971 

     略歴:
    明治18年(1885)に3代楊溪の長男として、下谷区豊住町に生まれました。 通称が金太郎で初め楊林と号し、大正3年(1914)に父が没して「四代楊溪」を称しました(楊林の号は弟の徳蔵に譲ったものとみられ、後に徳蔵は楊林を号しました)。 別号が山晴斎で、碎金堂・蓬泉堂・蓬仙堂の堂号も用いました。
     弟の豊川楊汀が正木直彦と親しくなったことから交流を持ったようで、 その日記『十三松堂日記』にも登場しています。 同4年(1915)、東京市より皇室に献上した 「東京名勝図萬歳楽図衝立」のうちの「神田須田町螺鈿扇面」 を製作しました。東京美術学校出身ではない作者が参画したのは正木直彦との交友のためと考えられ、極めて異例のことです。
     当時、豊川楊溪の螺鈿櫛笄類は高級装身具として有名で、 大正7年(1918)には銀座の袋物商「万久商店」の専属になりました。 原田豊『銀座百年の定点観測ー小間物商原田久兵衛伝 』(風媒社、1988年)には、「万久商店」から原三溪に納められた櫛の写真が掲載されています。
     大正13年(1924)皇太子殿下(昭和天皇)の御成婚記念に計画された飾棚・棚飾の一つとして 「藤花菖蒲螺鈿軸盆」を製作し、昭和3年(1928)に完成しました。
     しかし、こうした大作はあまり作らず、楊溪・楊汀・楊林の豊川三兄弟の作品は螺鈿の櫛笄で有名でした。昭和46年(1971)12月12日に没しました。

     作品を所蔵する国内の美術館・博物館:

    ・皇居三の丸尚蔵館( 東京名勝図萬歳楽図衝立 藤花菖蒲螺鈿軸盆

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    2023年5月27日UP

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