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  •  梶川家(かじかわけ)

     流派: 梶川派

     家系:
    梶川家は、5代将軍綱吉治世下の天和2年(1682)、初代の梶川常巌が大坂から召し出され、 印籠その他蒔絵御用を勤め、それ以来12代にわたり、代々将軍家の御細工頭支配御蒔絵師でした。 印籠工として、古今第一の名工と評され、最も有名な印籠蒔絵師の一派として、明治維新まで繁栄しました。

     格式:
    代々の格式として
     ・正月二日に御扇子献上、御目見。
     ・五節句・八朔・歳暮共御目見。
     ・御代々様御法事済、拝礼。
     ・旅行並びに非常際に帯刀。
    を許されています。将軍家から拝領するなどして、 どこの大名家でも必ず数点は持っていたようで、印籠の有名ブランドとして有名でした。梶川家は作品が多く残っており、 一門・工人で作って「梶川作」として、世の中に製品を出していたと考えられます。 印籠や道具類に「梶川作」に朱漆で「栄」の壺形印を添えたものが多く見られる ほか、多くの工人の名が伝えられ、さまざまなな個銘が入った作品も現存しています。

     各代略歴:
    梶川 常巖 初代  ? 〜1711
    通称が彦兵衛で、号が常巌でした。大坂の人で、天和2年(1682)、幕命により江戸へ召出され、 5代将軍・徳川綱吉御召の御印籠その他、蒔絵御用を勤めました。 翌年、年始・五節句・八朔・歳暮とも御目見を許されました。貞享3年(1686)に剃髪し、 正徳元年(1711)に没しました。

    梶川 彦兵衛 2代  ? 〜1739
    初代常巖の子で、宝永2年(1705)、常巖が病気のため相続し、 御目見して御用を勤めました。元文4年(1739)に没しました。

    梶川 彦兵衛 3代  ? 〜1750
    2代彦兵衛の子。元文3年(1738)、父が病気のために相続し、 御目見して御用を勤めました。寛延3年(1750)に没しました。

    梶川 長次郎 4代  ? 〜1753
    3代彦兵衛の養子で延享元年(1744)に相続して御目見。宝暦3年(1753)に没しました。

    梶川 長次郎 5代  ? 〜1760
    4代長次郎の子で、宝暦3年(1753)に相続。この頃から幕府御箔屋を兼業し、 店舗を日本橋通三丁目に構えています。宝暦10年(1760)に没しました。

    梶川 長次郎 6代  ? 〜1783
    5代長次郎の子。諱が久紀。宝暦10年(1760)に相続して御目見しました。 当時、歌人としても知られ、久樹とも号し、 「廿三番扇合」・「荷田御風五十算詩歌」にも和歌を寄せています。 天明3年(1783)に没しました。。

    梶川 清左衛門 7代  ? 〜1798
    6代長次郎の養子で諱が元信です。天明元年(1783)に相続して御目見しました。 病気がちだったようで、御用のほかを手代・藤兵衛という者に任せていたところ不正があり、 天明4年(1784)に百日押込の御咎を受けました。 しかし御蒔絵師としては、種姫君様御入輿御用・御台様御婚礼御用を勤めました。 また寛政7年(1795)には、芝増上寺にある6代将軍家宣の廟所・文昭院殿修復に際し、御用箔の調達を請負っています。 寛政10年(1798)に没しました。

    梶川 清左衛門 8代  ? 〜1802
    7代清左衛門の子で、寛政8年(1796)に相続して御目見し、享和2年(1802)に没しました。

    梶川 市五郎 9代  ? 〜1815
    8代清左衛門の養子で寛政12年(1800)に相続、御目見。文化12年(1815)に没しました。

    梶川 清左衛門 10代  ? 〜1850
    9代市五郎の養子で文化10年(1813)相続しました。 峯姫君様・浅姫君様・元姫君様・文姫君様・溶姫君・和姫君様・末姫君様・喜代姫君様・ 永姫君様・泰姫君様御引移御用・姫君様御入輿御用・精姫君様御引移御用・ 壽明君御下向道具御用などを勤めました。御箔屋の店舗を本石町三丁目に移しています。 嘉永3年(1850)に没しました。

    梶川 徳三郎 11代 1828〜1866
    文政10年(1827)生まれ。実父は不明ですが歌舞伎役者につながりがあるようです。 実姉の額山は老中首座で備後国福山藩主・阿部正弘の側室になっています。 10代梶川清左衛門の養子となり、嘉永3年(1850)に相続しました。 線姫君様御引移御用・西丸表奥新規御道具仕立御用・美賀君御下向道具御用・本壽院様御道具御用・ 本丸表奥新規御道具仕立御用・実成院様御引取道具御用・晴光院様五ヶ年目御道具御用・ 御待請御道具御用・御縁組御道具・本壽院様二の丸へ御引移御用・和宮様御待請御道具御用・ 和宮様御婚礼御道具御用などを勤めました。慶応元年(1865)に没しました。

    梶川 鉦太郎 12代 1850〜1896
    嘉永3年(1850)生まれ。梶川徳三郎の実子で、柴田是真にも入門しています。 元治元年(1864)に御用向見習となり、本丸奥表新規御道具仕立御用を勤め、 慶応3年(1867)に相続しました。 この代で明治維新となり廃業しました。 維新後は千住の豪壮な邸宅に住み、明治29年(1896)に没しました。

     御箔屋:
    宝暦10年(1760)から幕府の御細工所御用達の「御箔屋」も兼業しました。 右に挙げた天保12年(1841)の武鑑の御用達商人では、 「▲御箔屋 御蒔絵師/本石丁三丁メ 梶川清左衛門」とあります。

     住居:梶川家拝領屋敷、御箔屋
    元禄9年(1696)、初代・梶川常巖が芝口2丁目に160坪の町屋敷を賜わり、明治維新まで続きました。 しかしそこは貸家にして家賃収入を得て、実際に住むことはありませんでした。
     実際に住んだのは呉服町1丁目で、宝永頃には北同心町に住みました。
     6代梶川長次郎の頃から兼業した幕府御細工所用達の御箔屋の店舗は、 日本橋通3丁目に構え、その後、本石町3丁目に移しました。
     文政期には下谷・久保町の武家地に居を構え、 文久以後は、入谷・坂本村の百姓地に住んでいたようです。

     仕手頭:
    幕末の梶川家では、御細工所や御小屋での職方仕手頭を梶山明細に委嘱していました。

     門人・工人:
    門人・工人としては、梶川を冠する作銘としては、 彰信・一房斎・胡柳斎・福王斎・寛王斎・寉子斎・和言・鰭鯛・恵信・松翠・常正・ 高房・桃枝斎・桃秀・儔英・久高・房高・良延などの個銘の作品が 複数見られます。一峯斎白井可交斎 などは、梶川を冠したものとそうでないものが確認できます。
     勝軍木庵光英は、梶川清川の門人と伝えられ、 それは10代・梶川清左衛門の門人であったと考えられます。
     また梶川文龍斎は、「官工/梶川文龍斎」と銘書するので、当主と思われます。

     作品を所蔵する国内の美術館・博物館:

    ・東京国立博物館(吉野山蒔絵小箪笥 桃鳩蒔絵印籠 五十三次蒔絵印籠 菊慈童蒔絵印籠 籬菊蒔絵印籠 茶道具蒔絵印籠 鷹鶴蒔絵料紙箱 )
    ・東京藝術大学大学美術館(菊蒔絵印籠
    ・永青文庫(芦鶴蒔絵印籠)
    ・三井記念美術館(二見浦蒔絵印籠)
    ・静嘉堂文庫美術館(桐鳳凰蒔絵箪笥・檜扇蒔絵印籠・蛇蒔絵印籠・秋草蒔絵印籠・芦鶴蒔絵印籠・女郎花鵲蒔絵印籠・高砂蒔絵印籠)
    ・江戸東京博物館(五十三次蒔絵印籠・松梅蒔絵印籠)
    ・東京富士美術館(秋景山水蒔絵印籠秋景山水蒔絵印籠扇五節句蒔絵印籠松鷹蒔絵印籠切形内近江八景蒔絵印籠瀧獅子蒔絵印籠薮柑子蒔絵印籠菊慈童蒔絵印籠菊慈童蒔絵印籠山水蒔絵印籠杜若蒔絵印籠黄石公張良蒔絵金工象嵌印籠雪梅鶯鴛鴦蒔絵印籠
    ・女子美アートミュージアム(京名所蒔絵提重
    ・茨城県立歴史館(◎菊壽蒔絵印籠・◎竹虎蒔絵印籠)
    ・佐野美術館(五十三次蒔絵印籠)
    ・徳川美術館(御簾牡丹蒔絵印籠・諫鼓鶏蒔絵印籠・百馬蒔絵印籠・鷹飼道具蒔絵印籠・梅白頭翁蒔絵印籠・花鳥蒔絵印籠・切形内近江八景蒔絵印籠・切形内十二支蒔絵印籠・富士羽衣蒔絵印籠)
    ・大阪市立美術館(盧生蒔絵印籠・三番叟蒔絵印籠・宝尽蒔絵印籠・能衣裳蒔絵印籠・王子蒔絵盃・ 両国橋富士蒔絵盃・両国橋花火蒔絵盃・鯉蒔絵盃・鯉蒔絵三組盃・六歌仙蒔絵盃・黒門蒔絵盃・ 高砂蒔絵盃・三囲社蒔絵盃・高倉院蒔絵盃)
    ・福井市立郷土歴史博物館(鶴蒔絵盃・亀蒔絵盃)
    ・御花史料館(品川蒔絵盃・野田玉川蒔絵盃)
    ・有馬記念館(調布玉川蒔絵印籠)
    ・大分市歴史博物館(桜楓山水蒔絵印籠

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    2008年7月25日UP
    2023年2月12日更新