佐野 長寛(さの ちょうかん)
1794〜1856
佐野長寛は江戸後期の京都で活躍した伝説的な塗師で、数々の奇行で知られています。
ごく一部の茶道具を除いて塗師の名前が残らなかった時代に作銘を入れて作品を遺し、
伝記やエピソードが残った数少ない人物です。
その作品は「神品」とまで呼ばれ、稀少とされてきました。
家系:
佐野長寛の家系は、能の「鉢木」で有名な佐野源左衛門常世の末裔とされ、
代々近江国浅井郡小谷村に住みましたが、
3代前に京都に出て塗師となり、出身地から「長濱屋」を屋号とし、
治兵衛を通称として代々その職を継いでいました。
長寛の父の頃とみられる長濱屋治兵衛の商標には「京新町三条上ル町/本堅地塗物色々/長濱屋治兵衛」とあり、
単なる職人ではなく、塗も自ら手掛ける漆器商であったと考えられます。
また箱書には「長濱屋次兵衛」としており、同音で「次兵衛」とも記していたことを確認できます。
略歴:
寛政6年(1794)、佐野長寛は長濱屋治兵衛の次男として新町三条上る町に生まれ、
幼名を治助とし、後に治兵衛を襲名しました。
幼い頃から父に従って漆工を学びましたが、12、13歳の時に父に向かって、
日本一の漆工になる志を語った伝えられます。
また高雅な作品を作るために詩歌を学び、儒者・数奇者がいると聞けば、訊ねて教えを乞いました。
父から全ての秘法を学び、さらに京都市中の漆工を訪ねました。
もっとも教えを受けたのは中村宗哲でした。
21歳の時、父の死により家名を継ぎ、翌年から諸国遊歴の旅に出ました。
まずは紀伊・吉野・奈良など畿内を訪ね、
さらに諸国の漆器産地を歴訪し、最後に江戸に至りました。
江戸では温故張寛と号した高橋新右衛門に師事しました。
そして当時、幕府の本丸御用の印籠蒔絵師が紫漆を使うと聞き、
訪ねて丁重に教えを乞いましたが断られ、
憤慨して研究し、ついにはその方法を自ら開発したとも伝えられます。
文政5年(1822)、帰京して再び新町三条上る町に居を構えて開業しました。
すぐにその作品は評判となり、高麗の名工張寛の再来と評されました。
自らその名を号しましたが、そのまま「張寛」の字を使うのは僭越なので、
「弓」偏を棄て、「長寛」と号したといわれており、定説になっています。
もう一つは江戸で師事した高橋新右衛門の号が「温故張寛」であったということも、重要な理由と考えられます。
天保4年(1844)には江戸で師事した高橋新右衛門(当時は「益弁」と号す)
から、「堆朱作者見究様伝書」を授けられています。
翌、天保5年には、大塩平八郎(1793〜1837)の依頼により、
石清水八幡宮に所蔵されながら、
宝暦元年(1751)に焼損した源義家の鎧の残欠を納める唐櫃を作り、奉納しました。
嘉永6年(1853)には、祇園祭の山車「浄妙山」の欄干と欄縁の黒漆塗を長男の秀太郎(長秀)とともに施工しています。
安政3年(1856)3月2日に没し、釈休専と諡されました。
その跡は長男の秀太郎(長秀)が継ぎましたが、翌々年に36歳の若さで没し、佐野家は絶家しました。
風貌:
断髪して髭や髪を剃らず、粗末な着物を纏って一向に気にしなかったと伝えられます。
この肖像画は、長寛の次男・西村宗三郎(1834〜1876)が、
長寛が没して半年の後、安政3年(1856)初秋に描いたもので、西村家に代々伝えられました。
宗三郎は長寛の親友・永樂(西村)保全(1795〜1854)の養子となって回全と号し、後に別家しました。
大正14年(1925)に恩賜京都博物館(現在の京都国立博物館)で「長寛70年祭遺作品陳列会」
が行われた際に西村家から出品され、
作品集『漆匠 長寛』にモノクロ写真が掲載されて以来、一度も世に出たことがありませんでした。
ところが2015年5月に突如出現し、このページで初めてカラーで紹介しています。
稀代の名工の風貌を知ることができる唯一の資料です。
紫地菊模様の小袖は紀州侯からの拝領品で、まともな着物はこの一領のみで外出には常にこれを着用し、普段は弊衣でした。
おそらく親友の永樂保全を通じて下賜されたものと推測されます。
また左脇に置かれているのは佐野家伝来の差添とされますが、手鎗とみられ、武門・佐野家の由緒と誇りを表すものと考えられます。
大徳寺、大綱宗彦和尚(1770〜1860)が上部に添えた賛には、次のように記されています。
漆匠長寛高麗名匠張寛五代之末葉也
安政三年辰三月二日壽六十三而死
法号釈休専 其男石蚓寫其像請讃
巧妙切斎造化切
全機自一家風
専心成器人皆賞
漆匠高名名不空
前大徳八十五叟大綱(印)
住居:
京・新町三条上る町に生まれ、そこで育ちました。諸国遊歴から帰って開業した長寛の家が生家と同一かは分かりませんが、
新町三条上る東側、出羽国庄内藩の用達商人・高倉喜助の隣とされています。
その門標には、「長寛、長治どちらでもよし」と掲げていたと伝えられます。
下職:
長寛には多くの注文に応じるために多くの下職がいたようで、名前も伝えられています。
塗師・宗兵衛
室町通中立売上る町に住む宗兵衛という名の塗師が下職をしていたと伝記にあります。
塗師・重兵衛
現存する佐野長寛作「正月祇園会蒔絵盃台」の箱書に、「門人塗師重兵衛」との箱書きがあり、
長寛が抱えていた塗師の一人とみられます。
佐野長秀
長寛の長男・長太郎も幼いころから父の薫陶を受け、長秀の号を授けられて長寛の仕事を助けました。
長寛が請けた祇園祭の山車「浄妙山」の宇治橋と欄縁は長寛・長秀父子で塗りました。欄縁の裏には長寛の銘と並んで「補助 長秀(花押)」の銘が残されています。
永田習水
長寛は塗師であり、蒔絵の仕事は「立花屋右助」が助けたと伝記にあります。
永田友治の末裔で、「橘屋」浅野友七の門人となり、後に「橘屋」を称した
蒔絵師の河口祐助のことです。さらにその後、外祖父の禁裏蒔絵常職・永田小兵衛の跡を継いで永田習水となりました。
揃いの蒔絵椀や蒔絵盃・茶道具などのきっちりした蒔絵の仕事のものは、この永田習水が手掛けたのでしょう。
一方、工程の間に漆絵と蒔絵、素彫が繰り返し入るものは、蒔絵も自身で手掛けたものと考えられます。
顧客:
長寛の顧客は京都市中や近郊の豪商などが多かったようです。
遺作展図録や、戦前の売立目録、現存作品の附属資料などからその顔ぶれを窺い知ることができます。
長寛の自宅周辺や西陣などの呉服商が多い傾向にあります。
「金屋(金安)」野口安左衛門
京・四条通油小路上る町の呉服商です。享保18年(1734)創業で、のちに両替商をも営んだ京都でも屈指の豪商です。
また京友禅の名店として現在まで知られます。遺作展図録『漆匠長寛』に6点の作品が見られ、
そのほか戦前の展覧会出品歴などから推測すると、50点以上の作品を所蔵していた長寛の一番の顧客とみられます。その邸内に一時期寄寓していたと伝えられ、その時の逸話も残っています。
「誉田屋(誉彦)」誉田屋彦兵衛
京・二条通室町下る町にあった呉服商で、有名な呉服商「誉田屋」の別家です。
現存する「絵高麗桜鯉蒔絵菓子器」(個人蔵)に附属する受取の宛名にその名が記されています。
「近江屋」外村與左衛門
元禄13年(1700)創業の近江国神崎郡金堂村出身の近江商人で、文化2年(1805)、京・富小路三条上るに
京都の支店を構えた関東呉服商です。遺作展図録『漆匠長寛』に1件の長寛作品が掲載されています。
「千切屋(千治)」西村治兵衛
京・新町通三条東入ルにあった呉服商。本家の西村与三右衛門貞喜(1533〜1604)が近江国甲賀郡西村の里から
京都に出て、弘治年間に三条室町西入るの北側に店舗を設けて「千切屋」と称したことに始まります。
2代目与三右衛門から分家した玄貞の子・尚貞が治兵衛を名乗り、代々「千治」を屋号としました。家業は京友禅呉服製造卸業として千切屋治兵衞株式会社に引き継がれています。
大正15年(1926)に行われた『当市(千治)西村治兵衛及某家所蔵品入札』の売立目録に長寛作品1件が見られます。
「千切屋(千五)」石田五兵衛
京・新町通三条北入ルにあった法衣・装束商。創業は文化6年(1809年)で、家業は株式会社大東に継承されています。
大正14年(1925)に行われた『当市石田五兵衛氏並ニ某家所蔵品入札』の売立目録に長寛作品4件が見られます。
「松清」井上清三郎
京・室町通錦小路上る町にあった染呉服商。大正8年(1918)に行われた『当市山伏山町井上氏所蔵品入札』の売立目録に長寛作品16件が見みられます。
「槌萬」北澤萬右衛門
京・車屋町通押小路下る町にあった染呉服商。大正8年(1918)に行われた『当市(槌萬)北澤氏(近忠)大橋氏両家所蔵品入札』の売立目録に長寛作品1件が見みられます。
「雁金屋(雁半)」中村半兵衛
京・東洞院通六角下る町にあった西陣織物商。大正4年(1915)に行われた『当市(雁半)中村氏旧蔵品目録』の売立目録に長寛作品2件が見みられます。
「桝屋」伊藤平三
京・室町通御池上るにあった西陣織物商。昭和6年(1931)に行われた『当市伊藤平三氏所蔵品入札』の売立目録に長寛作品4件が見みられます。
「橘屋」渡邊伊之助
京・元誓願寺通智恵光院西入ルにあった西陣織物商。昭和3年(1928)に行われた『当市西陣(橘屋)渡邊潤泉氏所蔵品入札』の売立目録に長寛作品3件が見みられます。
「井筒屋(井半)」清水半兵衛
京・室町通二条下るにあった天明年間創業の西陣織物商。大正11年(1922)に行われた『当市井半清水半兵衛氏所蔵品入札』の売立目録に長寛作品3件が見られます。
「鹽重」吉田重兵衛
京・室町通三条下るにあった西陣紋織商。大正9年(1919)に行われた『当市(鹽重)吉田重兵衛氏旧蔵品入札』の売立目録に長寛作品4件が見みられます。
「津清」上田作次郎
京・不明門通松原下るにあった織物商。昭和9年(1934)に行われた『当市上田作次郎氏所蔵品入札』の売立目録に長寛作品8件が見みられます。
「三栖屋」富久田萬次郎
京・元誓願寺通大宮西入るにあった生糸商。大正6年(1916)に行われた『西陣富久田万次郎氏所蔵品入札』の売立目録に長寛作品4件、
大正13年(1924)に行われた『当市西陣富久田氏中京西川氏(和久幸)所蔵品入札』の売立目録に長寛作品4件が見られます。
「堺屋」寺村助右衛門
京・河原町通四条上ルにあった糸組物販売商。大正6年(1916)に行われた『当市河原町寺村氏所蔵品入札』の売立目録に長寛作品1件が見られます。
「平井小橋屋」
享保年間創業で、大坂塩町四丁目に呉服店を構え、三丁目に両替商も営んだ豪商。
京都店は三条通高倉東入ルにありました。昭和6年(1931)に行われた『当市小橋屋平井氏所蔵品入札』の売立目録に長寛作品1件が見られます。
「桝屋」飯室栄次郎
京・元誓願寺大宮西入ルにあった絹着尺商。大正5年(1916)に行われた『当市西陣飯室待喜庵及某家所蔵品入札目録』に長寛作品3件が見られます。
「水口屋」伴庄兵衛
京・室町通五条東入ルにあった享保9年(1725)創業の木綿付商。昭和6年(1930)に行われた『当市水口屋伴氏並ニ某家所蔵品入札』の売立目録に長寛作品1件が見られます。
水野甚八
京・新町通綾小路下ルにあった丹後縮緬商。大正5年(1916)に行われた『当市西陣水野氏及某大家所蔵品入札』の売立目録に長寛作品2件が見られます。
「三井呉服店」三井八郎右衛門
遺作展図録『漆匠長寛』に1点を出品した「三井家」というのは、
永樂家とも深いつながりがあった室町三井家・三井高福でしょう。
長寛による台所道具や髪結道具など、様々な手道具の形を写した盃30種(50種とも)を所蔵していたともされます。
三井高福・高保父子が長寛と交流があったと考えられます。
「恵比須屋」前川五郎左衛門
京・六角通小川上る町(六角通油小路東入ル)にあった両替商です。吸物椀を釜茹でにする有名な逸話が残されています。
邸内に寄宿していたことも逸話に登場します。
大正3年(1913)に行われた『京都市前川氏所蔵品入札』の売立目録に長寛作「黒朱雲鶴小吸物碗 20人前」も見られます。
「津国屋」神田喜左衛門
京・室町今出川上る築山上半町にあった両替商。摂津国嶋下郡福井村から出て
寛永年間にこの地に両替商を構え、町年寄を務めて諸大名・公家に貸付を行っていました。
大正6年(1916)に行われた『上京神田氏所蔵品入札』の売立目録に長寛作品9件が見られます。
「鹽三」粟辻国之助
京・油小路通丸太町角にあった味噌塩醤油商。大正7年(1918)に行われた『当市上京粟辻氏所蔵品入札』の売立目録に長寛作品3件が見られます。
「糀小」山中小兵衛
京・下立売通智恵光院西入ルにあった醤油商。『当市山中小兵衛氏某大家所蔵品第一回入札目録』に長寛作品1件が見られます。
「桝定」山田定兵衛
京・烏丸通蛸藥師上ルにあった関東織物商。大正15年(1926)に行われた『当市山田定兵衛山田定七両家入札目録』に長寛作品3件が見られます。
「松前屋」西川傳右衛門
近江国八幡で繁栄した松前藩御用達の近江商人です。大正5年(1916)に行われた『江州八幡西川貞二郎氏所蔵品入札目録』に長寛作品4件が見られます。
西川貞二郎(1858〜1924)は西川傳右衛門家の10代目で明治の実業家でした。
逸話:
長寛は常に技術と意匠に工夫し、注文する人が雅ならば喜んで作り、
俗人であったら千金を積まれても決して作らなかったと伝えられます。
そのために貧しくとも関せず、妻と相対して和歌を詠んでいたそうです。
また奇行が多く、さまざまな逸話が伝えられています。
【エピソード1】
ある時、豪商・前川五郎左衛門の家に注文を受けた吸物椀を持参しました。
この家は長寛と同じく佐野源左衛門の血を引くと伝えられるために、
日ごろから懇意にしていた、と伝記にありますが、おそらく先祖が同じ近江国浅井郡出身であることの誤伝でしょう。
そこには先客がいましたので、次室に座って黙って聞いていました。
すると、よもやま話のうちに、その客は漆工のことに及び、
面前の人が長寛とも知らずに
「長寛という人は呑んだくれで、箸にも棒にもかからぬ所業が多く、
世間では名工と言うが、そうでもないのではないか」と言い出しました。
それを聞いて長寛は、他人ごとのように微笑んでいましたが、
ふと立ち上がって、勝手知った台所に行き、大きな鉄釜に湯を沸かし始め、
ぐつぐつと煮えたぎると五郎左衛門と客を呼びました。
そして、携えてきた椀をガラガラと煮えたぎる鉄釜に入れ、
薪ぎれでかき混ぜ始めました。しばらく煮て椀を取り出すと、
自分がその箸にも棒にもかからぬ長寛であると言いました。
そして、拙い技ながら我が椀はよく熱湯にも耐えることを特長としていると言い、
もし持って帰ってもらって明日になって毛筋ほどの亀裂でもあれば、
この職を止め、二度と長寛とも称すまじ、と気色ばんで言いました。
すると客も恥じて謝ったそうです。
また後日譚もあります。前川家に寄宿して土蔵の中で漆塗の作業をしていたことがあり、
その時に主人・五郎左衛門が長寛の粗服を嘲ったところ長寛は立腹し、
五郎左衛門がいかに招こうと、二度と前川家に行くことはなかったそうです。
【エピソード2】
一番のパトロンであった豪商の「金屋(金安)」野口安左衛門の家に寄食していた時のことです。
長寛は毎日朝食後に外へ出かけ、夕方まで帰ってこないことが3か月も続きました。
見かねた主人が小僧にあとを付けさせると、加茂川の河原で仰向けになってただ空を見つめていたそうです。
その後制作に没頭して20人前の金襴手蒔絵の吸物椀を納め、蓋裏には様々な雲を図案化していたということです。
戦前に野口家に出入りし、実際にその椀に盛ったことがある「辻留」2代店主の辻嘉一(1907〜1988)がこの逸話を伝えています。
【エピソード3】
長寛は人と交わることを好みませんでしたが、千家十職の土風呂師11代・永樂保全(1795〜1854)とだけは親友でした。
保全は長男・仙太郎(後の回全)が生まれて2年で妻が没し、男子が一人であることを憂いていました。
その様子に同情した長寛は、もし次男が生まれた時にはその子を保全の養子にすると約束していました。
そして天保5年(1834)、長寛は次男が生まれると、妻の乳も与えずに、保全に渡して友との約束を守った、という逸話があります。
これが長寛の次男・西村宗三郎(1834〜1876)です。永樂家の記録によれば14歳で永樂家の客分となり、16歳で養子になったとされ、エピソードは脚色されている可能性もあります。
ただし、永樂家の言い伝えでは「生まれてすぐに養子にした。うちへきて宗三郎といった」としており(杉浦澄子『陶芸家との対話』雄山閣、1975年)、
案外エピソードの方が正しい可能性もあります。
【エピソード4】
天保6年(1835)の春、日ごろ長寛が懇意にしている茶道具商の今津屋の祝いの席のために、源氏絵吸物椀20客を贈りました。
いざ吸物を入れて客に出すと、蓋が開きませんでした。それも1人だけでなく、全員の椀がどうしても開かなかったのです。
翌朝、長寛が呼ばれて行き、錐で椀の蓋に穴を空けると白い湯気が立ち上りました。
一夜もたっても、中の吸物はまだ温たかかったという話です。その後、錐の穴を埋めて補修して納めました。
嘉永6年(1853)、再び今津屋を訪れた長寛は、自作のこの吸物椀の外箱の蓋裏に
「我が老の拙なき業も後の世に またあらはるる時やあらなむ」
と書き付けたと言います。また一説にはこの歌は、
「我老のはなし無き菜の後の世に 又影はるる時やありなん」
であったともされます。
さらに時は流れて明治19年(1886)9月、
この椀が京都木屋町の道具商の市場に売りに出ました。
不景気にもかかわらず、入札すると210円が最高値で、最低札が155円でした。
ところがここに200円の札を入れた者が3人もいました。
10円の差で負けた3人は悔しがり、相応の利付けをするから、譲ってほしいと食い下がりました。
そしてその内の1人が300円で、と言い出し、
その者の手に渡って喜び勇んで帰って行きました。
あっけにとられる人々の中の1人が、
あの椀は「今津屋の源氏椀」で長寛の作品中でも名高い椀で、
300円の価値はある、と言っていました。
この話は当時の新聞に載るほど有名になりました。

長寛七十年祭:
長寛七十年祭は大正14年(1925)2月24日、京都の浄宗寺で法要を営み、
4月3日の9時からは妙法院で祭典が行われ、小書院では茶莚が、
御座間では点心が振舞われました。
また豊国神社、豊秀舎には4茶席が設けられました。
恩賜京都博物館(現在の京都国立博物館)では、北側の庭園で
京都漆工会の主催の茶席が設けられて茶がふるまわれ、
作品は4月3日から7日まで博物館内に展示され、「長寛70年祭遺作品陳列会」が開催されました。
この会の発起人は、今井貞次郎(道具商・八方堂)、稲垣和三郎(漆器商・美濃屋)、
磯上青次郎(道具商)、林新助(道具商・楽庵)、林新兵衛(道具商・新焦堂)、西村彦兵衛(漆器商・象彦)、
西村福三郎(漆器商・象福)、岡本専助(漆器商・漆専堂)、高田新助(道具商・採古堂)、
田中弥兵衛(漆器商・田中漆器店)、土橋嘉兵衛(道具商・仲選堂)、
赤尾平左衛門、宮崎平七(漆器商)、三上治三郎(漆器商・揚光堂)、
そして京都漆工会でした。
陳列が終わった後、出品作品を選抜して作品集『漆匠 長寛』が刊行されました。
作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
・京都国立博物館(龍鳳凰漆絵蒔絵食籠・雪林漆絵平棗)
・京都市京セラ美術館(絵高麗桜鯉蒔絵蓋物)
・三井記念美術館(鉄錆写提銚子)
・遠山記念館(遠州好春慶塗袋棚)
・野村美術館(龍蒔絵桃形菓子器・散桜柴蒔絵食籠・城端写菓子盆・
紅葉漆絵吸物椀・正法寺漆絵蓋物・伊勢物語吸物椀)
・滴翠美術館(扇面散漆絵蒔絵広蓋)
・湯木美術館(絵萬暦食籠・片輪車蒔絵菜盛椀)
・逸翁美術館(八角食籠・正法寺蒔絵菓子器)
・白鹿酒造博物館(恵比須蒔絵大盃・青海波蒔絵盃台)
・MIHO MUSEUM(蒟醤写十二角食籠・扇面散漆絵蒔絵菜盛椀・正法寺写菜盛椀・溜塗菊箔絵紹鴎形大棗・叩塗小田切文蒔絵縁高・
叩塗藤菊桐文蒔絵角平皿・楽焼写都鳥形酒注・叩塗金襴手写唐草文蒔絵吸物椀・楽焼写都鳥形酒注)
・耕三寺博物館(砂張写青海盆)
・手銭記念館(小田切文盃台・楓散蒔絵引椀)
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作品を見る⇒
佐野 長秀(さの ちょうしゅう)
(二代 長寛)(にだい ちょうかん) 1823〜1858
二代長寛は、佐野長寛の長男・秀太郎が襲名しました。
略歴:
文政6年(1823)、佐野長寛の長男として新町通三条上る町に生まれ、秀太郎と名付けられました。幼い頃から父に従って漆工を学び、のちに長秀と号しました。
嘉永6年(1853)には、父と共に祇園祭の山車・浄妙山の宇治橋と欄縁を塗り、
「補助 長秀(花押)」の作銘を残しています。
その作銘が父・長寛とは異なる花押であることから、長秀の作銘が2025年になって初めて判明しました。
安政3年(1856)3月2日に父長寛が没した後の年紀銘を伴った長寛作品や極書が存在し、
それらが長秀の作銘と分かったことから、長秀が長寛を襲名していたことも分かりました。
「長寛」の書体は非常によく似ているので、花押がない場合は判別が困難です。
しかし襲名からわずか2年後の安政5年(1858)8月15日に36歳の若さで病死し、
釈休信と諡されました。これにより佐野家は断絶しました。
住居:
京都新町通三条上るに生まれ、同所に住みました。
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作品を見る⇒
西村 宗三郎(にしむら そうざぶろう)
(三代 長寛)(さんだい ちょうかん)
1834〜1876
佐野長秀(二代 長寛)の死没によって佐野家は断絶しましたが、その弟で陶工・永樂家に養子に入った宗三郎が「三代 長寛」を襲名しました。
略歴:
佐野長寛の次男・宗三郎は天保5年(1834)に生まれました。
長寛が永樂保全と親しく、上記のエピソード3のような事情から16歳で永樂保全の養子となって善治郎と称しました。
18歳で結婚し、舅の武部了幽が娘に買った洛西・御室堅町の仁清窯跡に新居を設け、
翌年、保全の実子・和全と協力してここに窯を開きました。
その後、保全が宗三郎に永樂家の跡を継がせようとしたことから、宗三郎も一時「回全」と号した時期もありましたが、
保全と実子・和全との間に不和が生じますが、のちに若いし、和全が永樂家を継ぎ、宗三郎は別家して西村家を継ごとになりました。
長寛が没して半年の後、安政3年(1856)には宗三郎が父・長寛の肖像画を描き、
その後、代々西村家に代々伝えられていました。
慶応2年(1866)、和全が加賀九谷に招聘されると宗三郎も山代に滞在し、
明治3年(1870)に帰京しました。
翌明治4年には三井家に入り、三井家から大阪造幣局に派遣されて貨幣分析に従事し、1年後に辞職しました。
明治8年に大阪で錦窯を開こうとしましたが腸チフスに罹り、明治9年1月29日に43歳で没しました。
柳鶯軒西園宗範居士とされ、永樂家菩提寺法然寺に建碑され永樂家13代のうちに数えられています。
西村家資料によると、長寛が没した2年後に兄の長秀(秀太郎)も没っしてしまい、
残った職人たちに乞われて宗三郎が襲名して文箱を作り、配ったと伝えられています。系譜上は宗三郎は三代長寛とされますが長くは続きませんでした。 しかし大阪への移転などで漆工としては長くは続きませんでした。
宗三郎の子孫は、漆工としての家名の復興を長年の悲願としていましたが、
血族からは継ぐ者はずっと表れませんでした。
昭和16年(1941)、宗三郎の孫・西村素吉の代に中村大賀を養子として「二代佐野長寛」を称させ、家名を再興しました。。
作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
・滴翠美術館(石蕗蒔絵棗)
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