吉村 寸斎
(よしむら すんさい) 生没年未詳
吉村寸斎は、2018年に私が『愛知県史研究』第22号に
「尾張徳川家御用蒔絵師・吉村寸斎とその作品について」を
発表するまで、その存在も作品もほとんど知られていませんでした。
1994年、たまたま目にした吉村寸斎作「若松鶴蒔絵印籠」の銘文と細野忠陳『尾張名家誌』の記述で興味を持ち、
少しずつ確認していったニ十点ほどの作品と尾張藩の史料「稿本藩士名寄」(名古屋市蓬左文庫蔵)や地誌等からようやくその経歴が明らかになりました。
家系:
吉村寸斎の家は、尾張国名古屋城下で尾張徳川家の御蒔絵師を勤めた吉村助七家の家系です。
その本家は尾張徳川家の御塗師を勤めた吉村伝右衛門家で、
吉村寸斎はその別家の御蒔絵師・吉村助七家の5代目と考えられます。
【尾張藩御城代支配御塗師】
・初代 吉村 傳右衛門 ?〜1644?
吉村傳右衛門の先祖は、近江国信楽・多羅尾家ゆかりの郷士・北鬼五郎です。
北鬼五郎は、多羅尾光俊が「本能寺の変」後のいわゆる「神君伊賀越」に際して徳川家康に味方した初陣の際、敗北を嫌って北姓を喜多姓としました。
後に浪人して天正13年(1585)より駿府に住みました。
その子にあたる喜多傳右衛門は、名古屋城下で鞍打(鞍の木地の工人)になっていました。正保元年(1644)、
徳川家との由緒により、尾張藩祖・徳川義直(1601〜1650)に軍配団扇や旗竿を製作して献上し、
二十石五人扶持を賜って塗師御用を勤め、郷里の地名にちなんで喜多姓を吉村姓に改め、
塗師屋・傳右衛門と称したとされます。
ただし「稿本藩士名寄」では初代に当る人物は「塗師屋・長作」であり、寛永21年(1644)に没したとされるので、
召し抱えは2代・傳右衛門であった可能性もあります。あるいは初代・傳右衛門が明暦2年(1656)まで生きた可能性もあります。
・2代 吉村 傳右衛門 ?〜1675
2代・傳右衛門は、明暦2年(1656)に切米二十石五人扶持を給されて塗師御用を勤め、
塗師屋・傳右衛門と称しました。
万治2年(1659)には加増されて三十石二人扶持となり、細工もよくし、御用も多く塗師頭役となっています。
寛文2年(1662)には三人分加扶持されて三十石五人扶持となり、延宝3年(1675)に没しました。
・3代 吉村 傳右衛門 ?〜1731
2代・傳右衛門の子で初め十助と称し、延宝3年(1675)に跡職を継ぎ傳右衛門を称し、
扶持もそのまま給され、塗師屋頭も命じられています。享保16年(1731)に病死しました。
・4代 吉村 傳右衛門 ?〜?
3代・傳右衛門の子で初め忠助と称し、享保16年(1731)に父の病没により跡職を継ぎ、
二十五石五人扶持を下されることになり、翌年に傳右衛門と改名しました。
元文4年(1739)に病身により願い出て免職となりました。
・5代 吉村 松之丞 ?〜1740
4代・傳右衛門の子で松之丞と称し、元文4年、父の免職により跡職を継ぎ、二十石五人扶持を相続しましたが、
翌5年(1740)に病死しました。
・6代 吉村 傳右衛門 ?〜1791
初め藤治と称しました。5代が急死したため、養子とみられます。
そのためか元文6年(1741)に十石減知された十石三人扶持を給され、傳右衛門と改名しました。
この頃、名古屋城下常磐町に住んでいたことが分かっています。寛政3年(1791)に病死しました。
・7代 吉村 慶治 ?〜?
6代・傳右衛門の子で初め慶治と称し、寛政3年(1791)に跡職を継ぎ、十石三人扶持を給されました。
文化4年(1807)に病気により願い出て免ぜられました。
・8代 吉村 兵太郎 ?〜1740
7代慶治の子で、文化4年(1807)に跡職を継ぎ、十石三人扶持を給されました。以後の記録は残っていません。
【尾張藩御小納戸支配御蒔絵師】
・初代 吉村 助七 ?〜1732?
吉村助七は、2代・吉村傳右衛門の次男です。
延宝2年(1674)、尾張藩2代藩主・徳川光友(1625〜1700)に年頭御目見して棗を献上しました。
それ以降、新規に召し抱えられて小納戸より蒔絵御用を命じられて扶持代金7両を給され、
正徳5年(1715)からは小納戸ではなく表から金七両を給されるようになりました。
没年の記録はありませんが、2代の履歴から享保17年(1732)に没したと考えられます。
・2代 吉村 助七 ?〜1752
はじめ藤治と称しました。別家初代・吉村助七との関係は不明です。
おそらく全く別の家の御用職人と考えられ、
尾張藩3代藩主・徳川綱誠(1652〜1699)の時に扶持金5両を給されていました。
享保17年(1732)、「御切替ニ付被下金貮両減少」とあることから、
「御切替ニ付」とは吉村助七の養子となって相続したことによるものとみられ、
扶持代金3両を給されました。
つまり扶持5両の職人が、7両の職人の家を継いで、3両になったということになりますが、
扶持は減少しても名家の吉村家の家名を継ぐことに価値があったのでしょう。
宝暦2年(1752)に病死しました。
・3代 吉村 助七 ?〜1783
2代・助七の子で、宝暦2年(1752)に父の跡職を相続して助七を称し、扶持代金3両を給されました。
のちに願い出て免職され、子の喜平に家督を譲って素比知と称していましたが、
安永6年(1777)に子が任に堪えず免職されたため、
再び助七を称して扶持代金3両を給されて蒔絵御用を勤め、天明3年(1783)に病死しました。
・4代 吉村 助七 ?〜?
3代・助七の子で初め喜平と称し、父の跡職を相続し扶持代金3両を給されました。
安永5年(1776)に助七と改名しましたが、翌年その任に堪えず、免職されて扶持を引き上げられ、
父が再び御用を勤めました。
・5代 吉村 助七 ?〜?
3代・助七の子で初め惣右衛門と称し、天明3年(1783)父の跡職を相続して扶持代金3両を給されました。
同8年(1788、剃髪して休吾と改名し、また先祖の喜多姓を称して喜多休吾とも称していたようです。
享和元年(1801)、職名を「御蒔繪師」と唱えるよう命じられました。
文化12年(1815)、願い出て家職を免ぜられて隠居しました。
・6代 吉村 六左衛門 ?〜1831
5代・助七の子で文化12年(1815)に父の跡職を相続し、扶持代金3両を給されました。
天保2年(1831)に病死しました。
・7代 吉村 六之助 ?〜?
6代・助七の子で、天保2年(1831)に父の跡職を相続し扶持代金3両を給されました。
以後の記録は残っていません。
略歴:
吉村寸斎は、尾張徳川家小納戸支配御蒔絵師・吉村助七家の5代目です。
3代・吉村助七の子で、はじめ惣右衛門を称し、後に助七と改めました。
吉村姓と、本姓の喜多姓を称していたようです。
寸斎と号し、字が易です。また狂歌をよくして別号を一穴庵としました。
天明3年(1783)に亡父・助七の跡職を申し付けられ、扶持代金3両を給されました。
同8年に剃髪して休吾と改名して喜多休吾とも称し、
享和元年(1801)には職名を「御蒔繪師」と唱えるよう命じられました。
文化12年(1815)に願い出て倅の六左衛門に家督を譲りました。生没年未詳です。
作品の銘書や箱書に「張州御蒔絵師・寸斎」「張州寸斎」などと記しました。
「尾張国」の略称は普通「尾州」と記しますが、寸斎は「張州」と記しました。
寸斎以外でも「張州」と記すことは稀にありました。
さらに寸斎の場合は、稀に「尾陽」とも銘書し、また名古屋のことを「張府」とも銘書しています。
そして苗字の「吉村」を略して「吉 寸斎」としたものもあります。
家業の蒔絵のほか、彫刻をよくし、また夫婦で狂歌もよくしました。『繍像百人 狂謌弄花集』には、肖像とともに採録されています。
またそれによって妻女の名が「松千枝」と判明します。
逸話:
奇行で知られ、また大酒家として有名でした。
大坂の某が尾張国を通る時、大酒家としての吉村寸斎の噂を聞いて訪ねて来ました。
一斗もの酒を飲み比べましたが、大坂の某は病むこと3日、
寸斎は翌日平生と変わらなかった、という逸話が伝えられています。
『繍像百人 狂謌弄花集』:
『繍像百人 狂謌弄花集』は文化14年(1817)に名古屋の書林・萬巻堂菱屋久八より刊行された狂歌集で、
中京圏の古今の狂歌とその肖像を絵入で示したものです。
6丁表の上段・中に、吉村寸斎の肖像と狂歌が掲載されています。
羽織袴で脇差を帯び、扇を持つ姿です。髷を結っているので、
天明8年(1788)の剃髪前の姿を表していると考えられ、18世紀の蒔絵師の肖像としても貴重です。
一穴菴寸斎 吉村氏
うらめしや 外へこゝろを はこふ茶の やくせし手まへ いかにたつらむ
横井也有 1702〜1783:
知行千石の尾張藩士・横井孫右衛門家の6代当主で、諱が時般、字が伯懐、
別号が野有・永言斎・知雨亭・半掃庵・蘿隠などです。
武芸に長じ、御用人のほかに大番頭と寺社奉行も兼任しました。
一方で、俳諧、謡曲・書画・詩歌・狂歌などにも通じました。
『繍像百人 狂謌弄花集』にも掲載され、
寸斎の色紙短冊意匠の作品にもその句がみられ、若き寸斎と晩年の也有と直接の交流があった可能性もあります。
彫工・為隆:
吉村寸斎とほぼ同時代に、同じ名古屋に住んだ彫刻の名人に為隆という人物がいます。
いくつかの文献ではこの彫工の為隆と、御蒔絵師の吉村寸斎が同一人物とされています。
為隆は根付彫刻で有名で、根付以外にも大龍寺の「十六羅漢像」や円福寺の「秋葉大権現像」で知られています。
同一人物である可能性は充分あるものの確証に欠け、断定するには至っていません。
作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
・静嘉堂文庫美術館(木目地馬蒔絵螺鈿印籠)
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