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  •  古満 安匡 (こま やすただ) ? 〜1794

    野路玉川蒔絵硯箱
    (のじのたまがわまきえすずりばこ)

    全体表写真
     古満安匡作

     製作年代 : 江戸時代中期
     宝暦5年(1755)

     法量 :
    縦237mm×横146mm×厚35mm

     鑑賞 :
    制作年が判明する古満安匡の基準作品です。 銀梨子地で内側に繊細な野路玉川蒔絵があります。 徳川将軍家の注文品とみられ、幕府右筆の書による題簽とみられる 蒔絵の外箱が附属しています。
     明治維新後は日本橋の紙商「榛原」中村直次郎が所蔵し、さらに柴田是真に補作させた栗蒔絵の中板も添います。

     意匠 :
    外側は銀梨子地の無文で、内側に繊細な野路の玉川の蒔絵があります。 野路の玉川は六玉川のひとつで、現在の滋賀県草津市野路町にあり、 平安時代の末から和歌に詠まれた有名な萩の名所です。 流水に萩で、水に映る萩と月も表した心憎い意匠です。

     形状 :
    被蓋造の平硯箱で、身の下水板には硯石と水滴・肉池が嵌っています。

     技法 :
    ・木製の指物で、外側を銀梨子地としています。内側は黒蝋色塗地の青金粉を淡く蒔き、 流水と水に映る萩、それに水に映る月を研出蒔絵としています。月には銀粉を用いています。 その上に萩を高蒔絵で表しています。萩の葉は焼金粉と青金粉、萩の花は銀粉を使っています。
    ・明治初年に柴田是真が補作した硯押さえの中板は、青銅塗地に高蒔絵で栗が表されています。 指掛けの穴も栗の形に透かした機知に富んだもので、頭の毛は毛彫りで表しています。

     作銘 :
    蓋の内側面、萩の叢の隙間に隠し銘があります。「古満安匡作」と研出蒔絵で小さく入れられています。 研出銘であることから、製作時に計画的に入れられたことが分かります。
     明治初年に柴田是真が補作した硯押さえの中板には、「是眞」と毛彫銘があります。

     附属品 :
    二重箱と包裂が附属しています。 ・内箱は格調高い印籠蓋造で、内外共に黒漆塗で幕府右筆とみられる者の流麗な字形を平蒔絵で表しています。 蓋甲には「野路の玉川」とあり、見返しには「宝暦五年乙亥/卯月古満安匡作」と記されています。 箱には萌黄色の真田紐が付き、紐通には銀金具が付いた極めて丁寧な作りです。
    ・外箱は桐製で、内張の紙の下には拝領の由緒を記した書付の紙が貼られていた痕跡がありますが、 剥がされてしまっています。また旧所用者の「おしるし」とみられる「橘印」との墨書があります。
    ・包裂は水浅葱の絹帛紗で、やはり「橘印様」との墨書があります。 また端に「三一三」と墨書のある付札がありますが、これは大正の売立の際に付けられた整理番号です。

     柴田是真筆「蒔繪人名禄」 :
    「蒔繪人名禄」は、有名な「柴田是真写生帖」(東京藝術大学大学美術館所蔵)のうちの1冊です。 「柴田是真写生帖」には写生帖だけでなく、様々な記録類も含まれています。 「蒔繪人名禄」は、古今の漆工の名を、柴田是真が備忘のために書き抜いたもので、幕末を生きた是真ならではの貴重な証言も書き込まれています。 是真が本作の中板の制作を紙商の「榛原」から依頼されて預かった際、極めて貴重な本作の年紀銘を見て下記のように記録しています。

    「宝暦五年乙亥卯月古満安匡作ト有 野路の玉川 硯箱 日本橋 榛原氏蔵」

    是真が本作を前にして、先人の作品に敬意を払いながら補作したり記録した様子が目に浮かびます。

     伝来 :
    徳川将軍家の注文品とみられ、いずれかに下賜された形跡があります。 製作年が宝暦5年(1755)であることから、 9代将軍・徳川家重(1712〜1761)か、その周辺の所用であったと考えられます。
     明治維新後に日本橋の紙商「榛原」中村直次郎(1847〜1908)が入手したようで、 柴田是真に中板を補作させ、愛蔵していました。
     大正6年(1917)11月26日に東京美術倶楽部で開催された『東京榛原氏所蔵品入札』 の313番として売却された記録があります。目録には、

    「三一三 銀梨子地内玉川蒔繪硯箱 中板是眞作栗」

    と記されています。
     その後長らく行方不明でしたが、2021年に東京都内から出現しました。

     展観履歴 :
    2022 国立能楽堂資料展示室「秋の風 日本人と自然」展
    2022 国立能楽堂資料展示室「柴田是真と能楽 江戸庶民の視座」展
    2023 MIHO MUSEUM「蒔絵百花繚乱」展

    朝顔柄長蒔絵印籠
    (あさがおにえながまきえいんろう)

    全体表写真

     古満安匡作

     製作年代 : 江戸時代中期
     宝暦5年頃(1755)頃

     法量 :
    縦78mm×横77mm×厚20mm

     鑑賞 :
    古満本家4代の古満安匡が刊本『画図百花鳥』に基づいて制作した印籠100点の連作「百花鳥印籠」のうちの1つです。 100点の大部分は黒蝋色塗地研出蒔絵ですが、本作は玉梨子地高蒔絵とした豪華なものです。 「数取り」と呼ばれる、数十点おきに作られた入念な作とみられます。 美濃加納藩主永井家の伝来品で、9代将軍徳川家重からの拝領品と考えられます。
     珊瑚の緒締と夕顔源氏車鏡蓋根付が取り合わされています。

     意匠 :
    『画図百花鳥』の巻4、第78番にある「あさがお ゑなか」、つまり朝顔と柄長鳥の組み合わせの 意匠を印籠下絵に転用しています。

     形状 :
    大ぶりで、平たい常形3段の印籠です。「百花鳥印籠」はすべて同形・同寸法です。

     技法 :
    印籠裏写真 印籠裏写真 ・玉梨子地に高蒔絵で、ところどころに切金を置き、朝顔の花や、柄長には銀粉も蒔かれています。
    ・百花鳥印籠の段内部の仕様は全て同じです。朱漆塗で、立上りと釦は金粉溜地にしています。

     作銘 :
    印籠裏写真 底部右下に「古満安匡作」の蒔絵銘があります。

     伝来 :
    「百花鳥印籠」は、美濃国加納で3万2千石を領した永井家の伝来品で、 9代将軍徳川家重からの拝領品と考えられます。 屏風状に掛け連ねられていたと伝えられます。 明治中期に永井家を出て、多くはイギリスに輸出され、 現在も欧米を中心に世界各地に現存しています。
     本作は1977年にサザビース・ロンドンで売却された後は行方不明だったもので、 2018年に約40年ぶりに発見しました。

    画図百花鳥  『画図百花鳥』 :
    『画図百花鳥』は、狩野探幽・常信の原画を石仲子守範が写し、俳句を添えて、 享保14年(1729)に5冊組の刊本としたものです。刊行の経緯は不明ですが、 江戸の書肆・西村源六、松栢堂出雲寺和泉掾、河内屋茂兵衛などから同時に刊行したようです。 様々な花鳥の組み合わせが100掲載されています。

     古満安匡作「百花鳥印籠」 :
     古満安匡の「百花鳥印籠」は日本ではいまだに知られていません。 1990年にヴィクトリア&アルバート美術館のジュリア・ハット氏が 「GIFU INRO」として発表したことから、欧米で知られるようになりました。 これは欧米各地の美術館やコレクターが所蔵するGIFU INROと呼ばれる印籠群と 刊本『画図百花鳥』との関係を紹介したもので、 同氏は美濃国大垣藩主戸田家の旧蔵で徳川将軍家からの拝領品と推定され、それが欧米の定説になっています。
     それに対し、私は1996年頃から美濃国加納藩主永井家に伝来した印籠屏風だったという説を唱えました。 それは明治45年刊行の高木如水著『古今漆工通覧』にこれらの印籠の記述があるためです。 著者の高木如水自身がこの印籠群の売買に直接関与したらしく、 明治18年頃に永井家に所蔵され、 「御印籠屏風」と呼ばれていた200個の印籠(100個の誤りか)を掛け連ねた屏風から 数十個ずつを買い求め、それをイギリスに輸出していたというのです。 この印籠屏風は「数取」といって、数十個おきに格別技巧を凝らした印籠があったといいます。
     100個もの印籠を小藩の藩主が幕府の御蒔絵師に注文することは考え難く、 また当時「御印籠屏風」と呼ばれていたことと考え併せると、 おそらく9代将軍徳川家重からの拝領品と考えられます。
     しかし加納藩主永井家にはそれを拝領した記録もなく、 譜代とはいえ、小藩に過ぎず、徳川将軍家と格別親しくもない永井家がそれを拝領する理由も見出せません。 ただし、思い当たることがひとつだけあります。それは推定される製作時期と近接する宝暦6年(1756)5月21日に、 永井伊豆守直陳が、この美濃国加納城主となったことです。 もともと譜代大名の永井家は、江戸から近い日光街道の要衝である武蔵国岩槻城主でした。 それが9代将軍徳川家重の不明瞭な言語を唯一聞き分けることによって、 異例の出世を遂げた大岡忠光が、この日、若年寄から側用人(8代将軍吉宗以来廃止されていた)に就任して岩槻城主となり、 代わりに永井直陳が加納へ転封となったのです。 つまり大岡忠光の出世によって加納への転封を余儀なくされたことへの 慰撫のために将軍家重から永井家に下賜されたのではないかと考えています。
     明治維新後、加納藩は廃藩置県で加納県になりましたが、直後に岐阜県に吸収され、 加納の地名は岐阜に変わったため、これらの印籠群は 「加納印籠」とは呼ばず「岐阜印籠」としてイギリスに売り込まれたと考えられます。 「岐阜」という地名は、織田信長の天下統一の足掛かりとなった地で、 徳川家康が嫌った地名であったため、「岐阜印籠」とは江戸時代にはありえない名称なのです。
     これらを当時ヨーロッパで買い求めたのが、林忠正であったと考えられます。 林忠正が明治27年に記した印籠作者に関する備忘「印籠工」(国立国会図書館蔵)にも 「岐阜百花鳥印籠」との記述が確認できます。パリで1902年に「コレクション林」として 売立た際にも、「岐阜印籠」として5点の百花鳥印籠があります。大正7年林忠正売立 さらに 林忠正は20点を持って帰国したらしく、大正7年(1918)の没後の売立では「安匡作百花百鳥印籠」 として20点が掲載されています。
     現在は100点のうち60点ほどの現存が確認されていますが、 明治中期と比較的早い時期に海外流出したため、 そのほとんどは、現在もなお海外にあります。スイスのバウアー・コレクションの10点が最多で、 メトロポリタン美術館に1点、ボストン美術館に2点、 世界一の印籠コレクターだったエドワード・ランガム氏も8点を所有していましたが、没後の売立で散逸しました。
     なお、別に同時代の飯塚桃葉も、同様に百花鳥印籠を製作しています。

     展観履歴 :
    2020 国立能楽堂資料展示室「日本人と自然 能楽と日本美術」展
    2023 MIHO MUSEUM「蒔絵百花繚乱」展

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    2022年 7月23日UP
    2023年 8月13日更新