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  •  飯塚 桃葉 初代  (いいづか とうよう) 1725?〜1790

    雲龍蒔絵印籠(うんりゅうまきえいんろう)

    全体写真  飯塚桃葉作 狩野典信下絵

     製作年代 :
    江戸時代中期
    宝暦14年(1764)〜安永9年(1780)頃

     法量:
    縦80mm×横68mm×厚22mm

     鑑賞 :
    「芦雁蒔絵印籠」(東京国立博物館蔵)と並ぶ、飯塚桃葉による研切蒔絵の傑作です。
     狩野栄川院典信下絵の墨絵雲龍図を忠実に蒔絵で再現したものです。 豪快な雲龍図は注文者の前徳島藩主・蜂須賀重喜の気質をよく表す作品といえます。
     緒締には瑪瑙玉、根付には是楽作「風神鏡蓋根付」が取り合わされています。

     意匠 :
    拡大写真 墨絵雲龍図を蒔絵で表現したものです。表には雲の中から睨む龍を、 裏には龍によって渦が巻き起こった雲が表されています。
     木挽町狩野家当主であり、徳川幕府の奥絵師筆頭で、 江戸狩野派の総帥でもある狩野栄川院典信による法眼銘の下絵です。 典信が法眼であったのは宝暦12年(1762)〜安永9年(1780)です。 印籠の下絵は、最終製作者である蒔絵師の許に保存されます。 飯塚桃葉の場合もそうだったようです。ところが天明元年(1781)、 徳島藩は、飯塚桃葉が前藩主蜂須賀重喜のために製作した印籠の内、 狩野栄川院典信筆の下絵を提出するよう桃葉に命じています。
    段内部写真  一方でフィンランドの印籠研究家のクレス・コレクションに「蒔絵金具類下絵」という資料が現存しています。 その中には狩野栄川院典信や徳島藩御用絵師、河野栄壽・矢野栄教らの下絵が貼りこまれています。 これは徳島藩が御用職人らに製作させた作品の内、 有名絵師が描いた下絵を保全する目的で編集されたものと考えられます。 つまり前述の桃葉が徳島藩に提出した下絵を、 徳島藩が編集した資料が「蒔絵金具類下絵」なのです。 その中にはこの印籠や芦雁蒔絵印籠(東京国立博物館蔵)の下絵が含まれており、 図様は寸分違わず合致しています。
     以上のことから、この印籠は、国許の大谷御殿に隠居していた蜂須賀重喜が、 安永年間に江戸の飯塚桃葉に製作させた作品と考えられます。

     形状 :
    常形、隠し紐通し4段の大振りな印籠です。

     技法 :
    裏写真 裏写真 ・ 金粉溜地に研切蒔絵 で表されています。研切蒔絵では金属粉の他に、 墨絵の部分を表す黒色粉を使います。また濃淡を表すための中間色として、 金属粉と黒色粉と混合した粉を用意します。 この印籠では焼金粉と黒色粉の間に中間色が2段階あり、 4回に分けて蒔くことによって、墨絵の雰囲気を忠実に表しています。
    ・ 内部は金梨子地です。

     作銘 :
    底部の右上に「法眼栄川画」と「白玉斎」の朱漆書印があり、狩野栄川院典信の下絵銘となっており、左下には「觀松斎(花押)」の作銘があります。

     伝来 :
    2003年まで、数十年にわたって印籠・袋物のまとまったコレクションとして眠っていた作品です。

     展観履歴 :
    2013 徳島市立徳島城博物館「狩野栄川院と徳島藩の画人たち」展
    2019 東京富士美術館 「サムライ・ダンディズム」展



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    桜筏蒔絵文台

    (さくらいかだまきえぶんだい)

     飯塚桃葉(初代)作

     製作年代 : 江戸時代中期
    天明頃(circ1780)

     法量 :
    縦348mm×横592mm×高108mm

     鑑賞 :
    欅木地の文台で、木地蝋研出蒔絵で桜筏を表しています。 簡素に見えながら、実は大変な技術を用いた作品です。
     また現在ではほとんど現存が確認されていない 飯塚桃葉による数少ない文房具の作品として貴重です。

     意匠 :
    左上から右へ川を筏で下る様子を表しています。 棹で筏を操る船頭の手や足は、 指の1本1本まで描かれ、 表情も卑俗にならず豊かです。 左下には芦と蛇籠が配されています。 右上には、2本の山桜と1本の松、そして5本の若松を配しています。 その山桜の木から風にのった花が川へ散っているという趣向になっています。 芦や流水、霞の表現も桃葉らしい描法が採られています。

     形状 :
    通常の文台の構造です。天板と脚、筆返しからなります。 天板は一枚板の両端にハシバミを加えて変形を止め、筆返しを取り付けています。 隅金具を一切使わない簡素な作りです。

     技法 :
    欅の木地で、美しい木目を見せる木地蝋塗としています。 そこに模様の部分のみ研出蒔絵として、研出蒔絵の下には美しい木目が透けて見えます。 木地蝋研出に付描、技法はそれだけです。 付描は桜の蘂、松の幹の斑点、筏に使われている縄、そして銘だけです。
     金具もなく、木地蒔絵でもあり、非常に簡素な作りに見えますが、 実は驚くべき高度な技が発揮されています。それは、どんなに木地の表面を整えたとしても、 下地を付けない木地蒔絵の表面には木目による凹凸や、硬さの違いがあります。 そこに、金属粉の厚みを感じさせずに、 一箇所でも研ぎ破ったら失敗となる研出蒔絵を施すことはほとんど神業に近いことです。 しかも木地蒔絵なので、失敗して研ぎ下ろすとすれば、全面を鉋で削るところからやり直 さなければならないのです。
     これは注文主が、 この技術が如何に高度であるかを理解しているのかを問う作品なのです。 そして作り手は、その注文者がそれを理解できることをよく分かっていたからこそ作ったものなのです。 高蒔絵や切金、金貝など、見るからに手間が掛かっているように見える技法を一切使わず、 高度な技法をさりげなく、苦もなくこなしたかのように見せています。これは 作り手と注文者の身分を越えた信頼関係があったからこそ生まれた作品なのです。

     作銘 :
    左下の隅に非常に小さな字で「觀松斎(花押)」の蒔絵銘があります。

     外箱 :
    外箱は頑丈な桐の厚板でできており、蓋表に「上/文台」 との墨書があり、貼札には「観松斎作/蒔絵文台」とあります。

     伝来 :
    国内にあり、2006年に確認されました。

     展観履歴 :
    2020 国立能楽堂資料展示室「日本人と自然 能楽と日本美術」
    2021 国立能楽堂資料展示室「日本人と自然 能楽と日本美術」
    2023 MIHO MUSEUM「蒔絵百花繚乱」展


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     飯塚 桃葉 2代  (いいづか とうよう) 1766?〜1844?

    香道具蒔絵鏡蓋根付
    (こうどうぐまきえかがみぶたねつけ)

     飯塚桃葉(2代)作

     製作年代 :
    江戸時代中期 
    天明頃(1781〜1788)

     法量 :
    直径40mm×厚14mm

     鑑賞 :
    香道具を意匠とした格調高い作品で、2代飯塚桃葉による部屋住み時代の初期作です。 徳島藩主蜂須賀家の特注品で、兎手有栖川錦の巾着と白珊瑚の緒締が取り合わされています。 明治15年(1882)、第3回観古美術会に侯爵蜂須賀茂昭が出品した名品です。 西国の国主大名家における嚢物の習俗を知る上でも貴重です。

     意匠 :
    香道具の意匠で、鳥蝶蒔絵の阿古陀形香炉と香包を配しています。 香包は雲形の意匠で「九重」と書かれています。

     形状 :
    鏡蓋根付で、鏡板は銀板で、紐通は銀の輪が蝋付された珍しい形状です。 台は挽き物です。

     技法 :
    銀板の鏡板を金粉溜地とし、阿古陀形香炉と香包を高蒔絵にしています。 特に香炉の高蒔絵や火屋の表現は見事です。

     作銘 :
    鏡板の裏に毛彫銘があります。 2代飯塚桃葉は、桃枝から桃子と改号し、家督を相続して桃葉になっています。 桃枝銘は10代後半から20代前半までに作られた作品です。
     時代背景を考えると部屋住時代に藩主家から注文されたことになりますので、 国許で隠居中の重喜ではなく、当主治昭からの注文と考えるべきでしょう。

     附属品 :
    有栖川錦の巾着、白珊瑚の緒締、「有栖川/兎織物」と墨書のある包紙が附属しています。

     有栖川錦巾着 :
    有栖川錦は、有栖川宮家に所蔵されていたことに由来するともされますが定かではありません。
     特に兎手は他の馬や鹿と全く異なる生地です。
     巾着はもともと火打石を入れましたが、江戸の終わりには、 装身具になっていたようです。

     伝来 :
    蜂須賀家の特注品で、同家に伝来し、 明治15年(1882)の第3回観古美術会に出品されました。
     その後、蜂須賀家伝来の初代飯塚桃葉作「五十三次蒔絵印籠」、 白亀斎作「亀蒔絵印籠」の2点、巾着2点の計4点が共に伝来し、 2008年に市場に登場しましたが、行方不明となり、 2010年に再確認して、今回の公開となりました。

     観古美術会 :
    観古美術会は、当時工芸が衰退していたため、 明治維新以前の名品を集めて輸出工芸の振興を図る目的で 内務省博物局によって開催された国策レベルの古美術展です。 第2回展からは、上野天龍山生池院において結成された龍池会が引継ぎ、 第3回展には明治天皇が行幸し、その後総裁に有栖川宮熾仁親王を迎えました。 第7回展を最後に、龍池会は日本美術協会と改称し、美術展覧会へと発展しました。
     第3回展は、明治15年(1882)4月1日から5月31日まで、 浅草本願寺で開催されました。侯爵蜂須賀茂昭は、狩野元信筆布袋図幅、 38点の印籠、3点の印籠巾着の合提、17点の名物裂を使用した巾着を出品しました。 本作品は出品目録の「有栖川兎手巾着」に該当します。

     展観履歴 :
    1882 龍池会「第3回 観古美術会」
    2019 東京富士美術館「サムライ・ダンディズム」展


    祖谷蔓橋蒔絵印籠
    (いやのかずらばしまきえいんろう)

    全体表写真

     飯塚桃葉(2代)作

     寸法 :
    縦84mm×横64mm×厚21mm

     製作年代 :
    江戸時代後期 
    文政11年(1828)?

     鑑賞 :
    2代飯塚桃葉が晩年の63歳の時に作った印籠です。 平家落人伝説で有名な阿波の秘境に架かる「祖谷の蔓橋」の藤蔓の材を使い、 画題も同じ「祖谷の蔓橋」として木地蒔絵にした、 極めて興趣に富む印籠です。
     ウイリアム・W・ウィンクワース卿(1897〜1991)、 エドワード・A・ランガム氏(1928〜2009)の旧蔵を経た名品です。
     根付には梅蒔絵饅頭根付、緒締には胡桃実を取り合わせています。

     意匠 :
    祖谷の蔓橋 は、平家落人伝説のある阿波国西部の秘境、 祖谷溪谷に架かる吊橋で、現在では国の重要有形民俗文化財に指定されています。
     この「祖谷の蔓橋」が印籠の表裏に表され、柴を背負った樵夫2人が渡る様子が描かれています。
     桃葉の取材銘には「於」の字の有無が意識されており、桃葉が現地に行ったことは確実です。 2代飯塚桃葉の生没年は不明ですが、63歳の 桃葉が私的にこの辺境の地まで旅行することは考えがたいことです。
     文政11年(1828)9月24日、徳島藩主蜂須賀斉昌は祖谷橋巡見を行い、 藩御用絵師の渡邊廣輝も随行して墨画「蔓橋老松図」を描いています。 2代飯塚桃葉も随行して、この材を取材した可能性が高いと考えられます。 私が、2代桃葉の生年を1766年と推定する根拠の一つとしている資料でもあります。

    段内部写真  形状 :
    常形2段の印籠です。最下段を深くしています。

     技法 :
    ・祖谷橋の藤蔓の芯近くを刳り貫いて、印籠の素地としています。 立上がりは紫檀を刳り貫いて作り、各段に嵌め込んでいます。
    ・目の粗い素地に、木地蒔絵の手法で高蒔絵としています。 樵夫などは、顔の表情まで描いています。

    銘写真  作銘 :
    底部に「取材於柤谷橋之/藤蔓/行六十三/桃葉(花押)」と蒔絵銘があります。
     この花押は50歳代後半から使ったと思われ、行年銘は60〜65歳銘がみられます。 なぜか63歳の作銘には、この作品のように「行年」ではなく「行」と入っています。
     この時期の作品の多くは桃葉銘の木地蒔絵の簡単な作品で、徳島藩士のために作ったと考えられます。 またそれらの中には由緒ある材木を使い、それを銘文に記したものが多くあります。

     伝来 :
    博覧多識で知られたウイリアム・W・ウィンクワース卿の旧蔵品で、 1978年にクリスティーズ、ニューヨークで売却され、 世界一の印籠コレクターだったエドワード・A・ランガム氏の所蔵となりました(蔵品番号1407)。
     ランガム氏は叔父のウイリアム・ウィンクワース卿の旧蔵だったことから、 この印籠をことのほか愛蔵していました。 そしてランガム氏の没後、2013年にボナムス社の 第4回ランガム・コレクションの売立で売却され、約70年ぶりにようやく日本に里帰りしました。

     展観履歴 :
    2019 東京富士美術館「サムライ・ダンディズム」展

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    2006年 6月 6日UP
    2024年 3月17日更新