白井 可交斎(しらい かこうさい) 生没年未詳
流派: 梶川派
略歴:
これまで「可交斎」については資料がほとんどなく、幕末の江戸の印籠蒔絵師で、通称が白井松五郎、可交斎・松山
と号した、ということぐらいしかわかっていませんでした。
その作風は梶川風で、印籠・根付・盃などが多く現存していました。
その後、ライデン国立民族学博物館に所蔵される下絵集の下絵類と
梶川・可交斎・松花斎・松交斎などの在銘作品とが合致するため、
梶川家の一門であろうとの推測は確実視されてきました。
さらに最近になって可交斎の作品に「可交斎/吉国」・「枩山/吉国」
という在銘のものを数点発見し、諱が吉国であることが分かりました。
その上、「梶川吉国」銘の作品も確認しました。
これらのことから、はじめは梶川一門の工人として「梶川吉国」と銘し(右上)、
後に名工として独立して、「可交斎枩山」(右下)や「枩山/吉国」・「可交斎/吉国」と銘したと推測するに至りました。
また彦根藩主井伊家に伝来した白井可交斎作「不忍池蒔絵盃」(彦根城博物館蔵)が、
文化8年(1811)に江戸城中で徳川将軍家から拝領したものであることから、
その活躍は文化から安政と推測され、将軍家の御用を勤めていたことも確実になりました。
印籠や盃のほとんどは徳川将軍家に納めたものと考えられます。
一橋徳川家に伝来した「千羽鶴蒔絵印籠」(重文・茨城県立歴史館蔵)などは蓋裏銘の傑作で、
いかにも徳川将軍家からの拝領品らしい風格がありますが、伝来経緯の記録がありません。
私の推測では、尾張徳川家の徳川茂徳が茂承となって一橋家に養子に入った際に持込んだと考えています。
尾張徳川家の幕末の印籠リスト「御印籠附」の冒頭に挙げられる江戸の戸山下屋敷にあった
「壱番 千羽鶴」が現在徳川美術館には存在していないためです。
「千羽鶴蒔絵印籠」も徳川将軍家から尾張徳川家、一橋徳川家に伝わったと考えています。
これほどの名工でありながら、正確な生没年や住所など、詳しいことは依然として何も判っていません。
門人の中林笑山が師事した期間から万延頃まで存命だったと考えられます。
門人:
松田松交斎・川崎光山・中林笑山
作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
・根津美術館(寿老人蒔絵象嵌印籠)
・静嘉堂文庫美術館(風雪三顧蒔絵象嵌印籠・流水南天蒔絵印籠)
・東京富士美術館(足柄山蒔絵印籠
・桜紅葉蒔絵印籠
・象唐子蒔絵印籠
・円窓架鷹蒔絵印籠)
・茨城県立歴史館(◎千羽鶴蒔絵印籠)
・大阪市立美術館(富士芝浜蒔絵盃・蓬莱蒔絵三組盃・鯉富士龍蒔絵三組盃・水道橋蒔絵盃)
・彦根城博物館(不忍池蒔絵盃)
・立花家史料館(波鯉蒔絵盃
・六歌仙蒔絵盃・吉野山蒔絵盃・富士川蒔絵盃・吾妻橋蒔絵盃・隅田川蒔絵盃
)
・雷神門蒔絵盃・三囲社蒔絵盃)
作品を見る⇒
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